kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2017.5.11 「偶有性」④

                                                  カメキチの目

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 先に「他でもあり得た」といったけれど、 それは自分が自分であった必然性はないということだと茂木さんは述べていた。

 

 彼(彼女)とめぐり会っていなく、他の彼(彼女)といっしょになっていたかもしれない。あの学校に行っていなくこっちの学校へ、この会社に就職していず、あっちの会社にいっていたかもわからない。

 

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 その際、私が他の誰かでもあり得たとき、その誰かと私は、同じように人として尊重されなければならない。

 彼(彼女)と私は「等価」なのである。対等である。

 

 つまり、「もし私がAさんだったなら…」

 Aさんの気持ち、立場をていねいに想わなければいけないということだろう。

 茂木さんは書いている。

「…このような仮想の背景にあるのは、他人にも自分と同じようにうち震える意識があるという前提である。『今、ここ』に自分がいるという逃れようのない思い。やり切れない気持ち。そのような自分の状況と全く同じ状況が、他人にも存在していると考える。だからこそ、『私』が『彼』の立場になれば、『今、ここ』の『私』の意識と同じような魂のうち震えのただ中に置かれるのだと予感する。私たちは、『もし私が他人だったら』という仮想に、魂を揺さぶられるような思いを抱くのである」

 それを突きつめていくと、つまり相手に強く同感・共感すると、(極端にいうと)自分の「自我」というものと彼(彼女)のそれ(「自我」)の境界があいまいになってくる。

 「『私』に関する一つのパラドックスは、その中心に近づくほど不可視となり、明示的なかたちでは把握することができなくなり、いわゆる『個性』が消えていくことである」

 

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 私には、「偶有性」が「他でもあり得た」ことと並んで、(「偶有性」の本質からいえばそうなんでしょうが)その「他」に限りなく強く同感する、共感を抱くということがとてもステキなことに感じられた。

でも、トランプや安倍、独裁者は「偶有性」と聞いても「なんじゃソレ?」とは言っても、知ろうとはせんでしょう。そういう個人の人生の機微なんて「なんじゃソレ?」とあしらうのがオチ。彼らの最大の関心は「ワシ、ワシ…、オレ、オレ…」。自分の権勢と名誉だけ。

 

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 本は、他のことでも詳しくいろいろ書かれていた。

ご興味おありの方は本のほうをお読みください。

 が、終わりの「あとがき」が、またまたよかった。

紹介させてください。

 

「偶有性」は、それぞれの人がまさに「生きている」なかで、ライブ(「今・ここ」)のなかにこそ存在する。この瞬間の私の脳のなかにこそ存在するのだ。

「偶有性とは、生きるとは予測しがたいという原理であり、またその認識である。生活の中で出会う『驚き』こそが、脳にとってのもっとも滋養に富む刺激になり得るという叡智でもある」

 現代は人工知能、ロボットがかなり力をつけてき、将棋や囲碁でもおもしろ半分、遊び半分だったとしても、人とコンピュータの勝負はネタになるのでニュースでまじめに報じられる。

 茂木さんは脳の科学者として、人工知能やロボットが取り立たされることの多い現状、つまり、「偶有性」という生命本来の原理とは異なるかたちで発展しようとしている現代文明を憂えている。

「脳の動作は、いい加減であり、だからこそ、偶有性に適応する。コンピュータの動作は厳密であり、偶有性に適応できない。このような違いがあるから、脳とコンピュータの間には、超えられない壁があると、考えられてきた」

人工知能の学習のアルゴリズムに、飛躍的な進化があったわけではない。人工知能の本質は、『評価関数』と『最適化』である。あるシステムの動作を、どのように評価するかの基準がある関数によって与えられる。それに従って、最も良い評価が得られるようにシステムを最適化する。このような仕組みは、何も変わっていない」

「注目すべきことは、このような人工知能の爆発的発展が、偶有性の徹底的な排除に基づいて行われていることだ。人工知能の学習アルゴリズムは、『飽きる』、『文脈外のことで気が散る』、『幻想を抱く』といった、人間の脳の脆弱性を持たず、文字通り『機械的』である」

「人間の脳は、何億回という計算の繰り返しに耐えられない。ましてや、その計算に必要とされる膨大なデータを正確に記憶することなどできない。この点において、脳とコンピュータの間の勝負は、とっくの昔についている」

「問題は、偶有性、すなわち、生命の長い進化の過程で常に重要な拘束条件であったものを排除することが、人工知能を『狭く』していることである。…人工知能は、むしろ、『狭い』ことで成功している。…もともと、『頭の良さ』とは、まさに人工知能が飽きもせずに実行しているような、一つの文脈への集中のことだったのだ」

 

長い引用ですみません。

が、ここを読んで私は頭が悪くてよかった(よくはないか)、いい加減・努力きらいでよかった(よくはないか)と思いました。

また、著者はAIやロボット、バイオなどの飛躍的発展、「技術的趨勢は、すべてを計算し、予測可能なものにしようとする時代精神と無縁ではないだろう」と述べていました。

 

                            ちりとてちん

 

5月の課題:長い間放置され、忘れら去られた風景の写真

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2017.5.7 「偶有性」③ 

                                                  カメキチの目

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 著者はなんども、私の人生は今(この時間)・ここ(この場所)にあり、これ以外のあり様は「現実」にはないのだが、他でもあり得たのである、ということを強調される。

 

 ここで「あり得た他」というのは、「仮想」だ。つまり「想像」。

 

「あり得た他」というのは、なんにでも言える。

①自分が他の人であったり、②自分であっても、過去や未来の自分であったりする。

 ①②の想像するのは、あくまでも、今の自分だ。

 今の瞬間をこの場所で生きている自分自身である。

 

 しかし、今の自分がこうである必然性はない。必然性がないということは、 「他」でもあり得たのである。

小説、映画、演劇、テレビドラマ…なんでもかまわない。夢でもいい。

それらのすばらしいところは、もし自分がそうだったら(その立場にいたら)…と想像することだ。

私がアメリカ大統領や日本の首相だったら、親分、空母「カールビンソン」の提灯持ちをする子分、駆逐艦「出雲」の合同演習で北朝鮮を刺激するような、そんな子どもじみたマネは即刻やめるのだけど…。

アメリカ国、日本国と呼ばれる両「国家」がやっていることだからと、私たちは「重々しく」「ありがたく」思わさせられていると思う。私には、テレビニュースで日本海を航行する艦隊映像がチャンチャラ馬鹿げて映る。空飛ぶ円盤のETとかはどう思っているだろう)

マレーシアでの独裁者・バカ弟の手によるお兄さん暗殺の件の真相をウヤムヤに終わらせず、真相に迫るのだけど…。

 

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「他」でもあり得たという話の続

 

 まったく自分の力の及ばない、ただただ受けいれるしかない身体の特徴とか、どこそこの家、親のもとに生まれたというものもあるが、友だちとか、学校とか仕事場などを選ぶ(一つしかなく選択できないこともありますが)こともある。

選択できる場合でも、より次元の高いところからみれば、自分が「選択」したとはいい難いこともあると思う。

 でも、「『他』でもあり得た」わけだ。

 

「『他』でもあり得た」ことを想像し、こうなった、こうでしかあり得なかった自分に重ね、それを意識して生きる。

 

 茂木さんは書く。

「…ランダムな要素も混じる『偶有性』。偶有性は、生きる中で出会う様々な不確実性に対して脳が強健に反応するそのプロセスを理解する上で重要な概念である」

「…すっかり固定化したもののように思えていた自分の人生が、揺れ動き、ざわめき、甘美な予感に満ちた風が吹き始める。その時、私は『まさに生きている』と感じる」「『私は、全く他の者でもあり得た』自分に時々そう言い聞かせることは、人生をその『偶有性』のダイナミックレンジの振れ幅のすべての中で味わい、行動し尽すためにどうしても大切なことである。そして、私たちは往々にしてその呼吸を忘れてしまっている」

  また脳科学者らしく、こうも書く。

「脳は、何歳になっても『可塑性』を持つ。神経細胞神経細胞の間の結合は変化し得るのである。脳の学習は『オープン・エンド』であり、終りがない。どこまで学びが進んでも、必ず『その次』がある。学ぶことは、自分自身が変わり、世界が変わって見えることである。…かつて岡本太郎が乾杯の音頭を頼まれて『この酒を飲んだら死んでしまうと思って飲め、乾杯!』と叫んだように、生きるということは何も見えぬ暗闇への命がけの跳躍である。その一方で、生きるとは、絶えざる『過去との和解』でもある」

 

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 著者は、小さいころからとてもチョウチョが好きで、蝶を捕りに野山を駆けまわったそうだ。そのエピソードはいたるところに書かれていた。

 そのことが書かれた次の一文は、「偶有性」をだいじにする生き方がどういうことなのかをわかりやすく語りかけていると思う。

「(蝶は)毎回厳密に同じところを飛ぶわけではない。ある程度の傾向は決まっているが、前にはこの木とこの木の間を通ってきたのに、今度は別の木の間を通ってくるというような『ふらつき』はある。その微妙な『ずれ』が、生きているということの本質に関わってくる。…私たちの生の軌跡もまた、蝶道のようなものではないか」

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 もう1回で終わります。

 

                 ちりとてちん