カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.8.11 つれづれの記⑤

                                                  カメキチの目

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 【続き】

 

[道]

・私が地元の小中学校に通っていたころの道路は舗装ではなく、街までの7㎞をボンネットバスが土ぼこりをあげて走っていた。

まさに『ひよっこ』そのままです。人のよさそうな(よかったかどうか覚えていませんが)車掌さんもそのまま。

ただバスも前回書いたような「特急」「急行」になると、ボンネットではありません。乗り心地もよくなる。

土ぼこりは息をとめて防ぐ。なかなかおさまらないときは、長くとめておかなければならないので、苦しくなってくるほどだった。

対策に、ときどき道路に塩のようなものが撒かれ土が固められた(相撲の土俵みたいなものか)。舗装されたわけではないのにところどころがカチカチに固まり、そこだけ少し陽を照りかえしていた。

その道、1㎞を歩いて学校に行った。

1㎞とはいえ、私の集落に近づくにつれ、だんぜん曲がりくねった坂が増えた。

 

・幼いころのその体験は、思いだしたくないほど強烈な、イヤな記憶だ。

自動車が通ること自体がほとんどないわが集落の近くの道で、交通事故が起き、人が死んだのだ。

ほかはなにも覚えていないのに、まっ赤に染まった遺体にかけられた筵(むしろ)の映像だけが頭の底にこびりついている。

「トラウマ」になっていないのは、遺体は見なかったからだろう。

 

・「道」といえども鉄の道、レールはずっと見たことなかった。

線路も蒸気機関車も、私は小学6年生の修学旅行ではじめて本物を見た。

このときまで、汽車というものを歌では聞いていても、バスと道路しか知らなかった。

 

・時代小説などの場面に「〇〇峠」とかがよく出てくる。「〇〇峠を越えたら、そこは△△だった」。

1時間くらい。初めはバスも通る道を歩き、途中、バスの終点からは幅2mくらいの山道を行き、峠を越え、大きな川(私の集落を流れている川は「小川」と呼ぶにふさわしい大きさで、支流の支流。山ぶかいところだから源流も山のいたるところにある)に行った。

釣りのため。

小川にはいないオオモノを釣りに。

釣り竿は現地調達。

勝手にどこかの竹ヤブに入り、所有者への断りもなく、適当な長さと太さのものを見つくろって、「肥後の守(かみ)」という折りたたみ小刃で切り、釣竿にした。

思いだした。

当時は学校で、「鉛筆削り」という便利な文房具はなく、ナイフ然とした「肥後の守」を使いこなす前には、(「ソリ」と呼んでいた気がするが確かな記憶はございません)薄っぺらで扱いをまちがえると折ってしまう剃刀(かみそり)の「児童版」みたいな刃(折るところはついていませんが、「元祖カッターナイフ」でしょう)で鉛筆を削っていました。

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いつまでやっていたのかのも覚えていませんが、いつの間にか「危険」ということで、子どもの筆箱からだけではなく、文房具屋さんからも消えていったようです。

このおかげで生来ぶきような私でも、ときには指に血を出しながらもだんだんコツをつかみ、後年、竹トンボくらい作れるようになった。

 

 

祖母の村(実家)は峠を越えたところにあった。

バスセンターに行き、そこで乗り換えればよいのでバス利用の手があったが、祖母はお金(乗車賃)も手間(時間。バスは本数も少なく待ち時間も長い)ももったいないので、歩いた。峠を越せば直線で行ける。6、7㎞歩けばすむ。

幼い私がせがんだのか、かわいい孫(私のこと)をつれて行きたかったのか、ふたりで峠道を行ったのを覚えている。

用事が何だったのかは覚えていない。

祖母は、彼女が同居している伯父(長男。昔の「貧乏の子だくさん」にもれず、父方母方とも10人以上)の子どもたち(私には従姉妹)、弟より私をかわいがっていた。

そのかわいがり方は、(幼いときはわからなかった)大きくなってから思えば尋常ではなかった(従姉妹や弟はどう感じていただろう?)。

そのこともあり、自分が祖父となってから孫には平等に接している。

自分が父親、祖父になったとき、子ども、孫にわき起こる感情は自然なもので平等。わけ隔てのないものだった。祖母はどうして私だけ「依怙贔屓」したのだろう?

私だけがかわいかったわけでもないだろうに…(それは確かなこと。私の父は二男で、伯父のところは女の子ばかりだったので、貧乏な一族であっても〇〇家の「あと継ぎ」と大それたことを考えていたのだろうか)

 

中学生のときは、故郷の界隈ではけっこう有名な長い峠を越え、片道50㎞近くある大きな都市まで自転車(当時はサイクリング車なんかなく、いわゆるママチャリ)で行った。いっぱしの冒険家になった気がした。

〈続く〉

 

                   ちりとてちん

 

 

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