カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.8.10 暴力、そして性差別

                                                  カメキチの目

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ひと月ほど前(7月11日)、東京新聞デジタル版に

南スーダン軍が住民刹りく」という題で次のような記事がありました。

 【ナイロビ共同】国連人権高等弁務官事務所は10日、2013年に内戦が始まった南スーダンで今年4~5月、政府軍兵士や民兵が反政府勢力の支配地域の村々を襲撃、子どもや女性を含む少なくとも住民232人を殺害、4歳の女児をはじめ120人以上の女性に性的暴行を加えたと非難する報告書を発表した。

 同事務所は「計画的で冷酷かつ残忍だ」と批判。戦争犯罪に匹敵すると強調し、独立機関による調査を認めるよう南スーダン政府に要求した。

 報告書によると、兵士らは北部地方で少なくとも40の村や居住区を襲撃。村を包囲し、逃げようとする住民を射殺したり、家に火を放ち焼き殺したりした

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サスペンスドラマはフィクションですが、犯人は圧倒的に男性が多い。

現実には、残虐な殺人・遺体損壊を犯す女性もまれにはいますが、男には負けます(「暴力団」の構成員に女性はいないと思う。映画では姉御さんのような女性もたまには登場しますが、チンピラレベルではあまり見かけません。「女番長」はまだいるかもしれませんが、直接の暴力はやっぱりチンピラ《男》と思う)。

日大アメフト部の内田(監督であり、大学理事NO2という権力者でも)、アマチュアボクシングの「ドン」山根(も内田と似たりよったり)。オモムキはちょっと異なるけれど東京医大女性差別(平然と差別するような大学だから、「裏口入学」の高級官僚とウィンウィンの関係《もちろん多数の教職員のみなさんはまったく別》)。

「暴力」と「差別」。根っこはいっしょ。

 

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 サスペンスでは、「やっぱり男は悪い」と(自分も男であるけれど)嘆息することが多い。

 たまには「悪女」も登場するが、(暴力、権力とも)では男にかなわないので怨念や憎しみの心(を持つくらいだから、「正当防衛」になることが多い)で相手に向かう。それが何かの凶器に乗りうつり、狂気となって相手を傷つけてしまうことがある。まるで、『番町皿屋敷』のお菊さんだ。

 

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 生き物に「男性」「女性」の両性があること、生存していくうえで両性あるほうが一つだけより有利とか、原初の生命ではオス・メスはなかったとか、アダムとイブの話とか、動物のオスメスの実態や繁殖とか…。

 自分なりそれなりに、男女のことを知った。

 

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 動物の場合は、オスは自分がメスに気にいられ、選んでもらおうと、つまり自分の子孫を残すために(己の遺伝子を残そうと)他のオスと争う。

 相手に勝ち、目あてのメスに受けいれてもらうために熾烈な闘いをする。

「闘い」は肉体のぶつかり合いにとどまらない。どっちがよりメスに魅力的か「化粧」で争うこともあります。そのために涙ぐましい(と人間には感じる)「努力」をしているさまざまな動物種の姿をテレビの動物番組などでよくみる(「動物でなくてよかった。身体、能力、見ばえ…どれも負けているとこだった」と安堵)。

しかし、その闘いは種の繁栄のためになされるのであり、決してその動物個体自身の利益のためではありません。客観的に利己的なものとなっていないのです。

 

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「暴力」は人間だけがする。自分の利益、欲得のために、相手を傷つけ、踏みにじる。

 

 あらためて「暴力」というものについて、それも「性という差別」を絡めた暴力ということについて思った。

直接には朴裕河さんの『帝国の慰安婦‐植民地支配と記憶の闘い』という本を読んだのがきっかけです。

(この本は先の戦争で「慰安婦」《とくに朝鮮人》と呼ばれた女性の問題を扱った画期的な書物《高く評価されている》)

私はまだ若いとき、この本の冒頭でも触れられていた千田夏光というジャーナリストの従軍慰安婦“声なき友”8万人の告発』という本を読み、すごいショックを受けたこともあって、「従軍慰安婦」が澱のように胸の奥にありました。

慰安婦問題」は、それが「問題」にまでなった経緯がいろいろあり、「強制連行か、国民動員か」「慰安婦とは〈娼婦〉〈売春婦〉か、泣くなく売られていった〈無垢な少女〉か」などがさまざまにいわれてきましたが、著者は

【引用】

慰安婦問題をこれまでのように「戦争」に付随する問題ではなく、「帝国」の問題として考えたことです。「慰安婦」を必要とするのは、普段は可視化されない欲望-強者主義的な〈支配欲望〉です。それは、国家間でも男女間でも作動します。現われる形は均一ではありませんが、それをわたしは本書で「帝国」と呼びました」

といいます。つまり戦争状態にあっては「帝国」と「植民地」、「支配」と「被支配」。

でも戦争状態になくても、「男」と「女」として差別が存在する。

 

「帝国」という言葉は、「〇〇帝国主義」と教科書の言葉のようにちょっと他人ごとみたいに考えていましたが、自分は男性であり、「男という帝国」支配下に生きていることを自覚させられました。

 

本の紹介が目的ではないのですが、この部分も引用させていただきます。

【引用】

「しかも慰安婦が「性」を提供する立場であったなら、兵士は「命」を提供する立場だった。どちらも国家によって〈戦力〉にされているのである。…

遊郭には通ったのに、慰安所に抵抗を感じるのは、矛盾しているだろうか。そこでの性行為が〈国家〉を媒介にしないと成立しないことにこの兵士はいたって自覚的で、彼の「抵抗」は、私的であるべき空間を侵犯されることへの「抵抗」だったはずだ。…

ここにはだまされてきたと言いながら、軍人と自分の状況を運命とみなして、軍人と自分を同一視する慰安婦がいる。彼女は日本軍を恨まず、彼女の前には、民族の違いは意識されない一人の軍人がいるだけだ。目の前にいる男性は、あくまでも〈同族としての軍人〉であって、〈憎むべき日本軍〉ではない。彼女が軍人を自分と変わらない〈運命の者〉として共感を示すのは、彼女に同志意識があったからであろう。彼女もまた、自分も軍人も、日本国家によってはるばる遠くまで運ばれてきた「蟻」でしかないのを理解している。…

自分の身に降りかかった苦痛を作った相手を糾弾するのではなく、「運命」ということばで許すかのような彼女の言葉は、葛藤を和解へと導くひとつの道筋を示している。そのような彼女に彼女の世界理解が間違っている、とするのは可能だが、それは、彼女なりの世界の理解の仕方を抑圧することになるのだろう。何よりも彼女の言葉は、葛藤を解く契機が、必ずしも体験自体や謝罪の有無にあるのではないことを教えてくれる」

 

慰安婦問題」の本質を普遍的に考えれば、男性の多くはけっして他人ごとではすまない。

 

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 初めに挙げた南スーダン軍の住民殺りく。

 戦争状態は暴力そのものだ。

 男の兵士は力に勝っているだけでなく、銃や剣(ナイフ)まで持ち、女性、子どもを襲う。

 悪魔と化す。

(「獣と化す」とい言い方がよくされますが、そう言うと動物に失礼だと思った)

 

 戦争状態になくても、DV、ストーカーと圧倒的に男は女の人を暴力で脅し、傷つける。

 

幽霊やオバケ。オドロオドロシイものは子どものころは怖くていやだったが、大人になって怖くなくなった。

それはただ単に成長したということだけでなく、世の中・社会には「死んでも死にきれない」ような理不尽(『番町皿屋敷』のお菊さんのように。怨念、魂のレベルでしか表せないものが悲しみ)があるのだということがおぼろげながらわかるようになったからでもあります。

 

 

 

                  ちりとてちん

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