♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目の方)
このブログ。「社会に向けたような話題ばかりじゃなくて、もっと身近なことを書いたら」「(書かれていることが)長いんだよね。読む気がしなくなる」と妻に、書く気がそがれるような“ご指摘”をちょうだいした。
そうであるかぁ…
前に彼女が言っていたように、週2回くらいの更新にしてみよかとふと思った。そうすりゃ、話題の適切はともかく、短くおさめれそうだ。
パチン! そうしよう。
こんなふうに、ずっと前に指摘されていたことが時間をおき、後になって「ハッ!」と気づくことがおおいにある(この間の時間は、それの“熟成”のために必要だったのかもしれない)。何ごとも指摘・忠告されてみなければ、人は(そのことに)気づかない。気づかないまま(少し大げさにいえば)人生を終わることになったかわからない。だから、「私はコレコレ思うよ」と言ってもらえば(聞き入れるかどうかは別にして)、まずは、そういうのもアリかと謙虚に聞くようにせねばならない。
幸か不幸か私は障害者になったことで、謙虚さを人いちばい感じるようになった気がする。けれど、それは自分がそのような人間になったということではない。ますます、謙虚な人になる、近づくことがいかにたいへんなことかと、絶えない夫婦ゲンカのたびに自分のいたらなさにがく然とする。「ナンタルチア…サンタルチア。還暦を過ぎてなおこのザマ…」
謙虚になる・すなおになるというのははむずかしい。だが、それは努力すべき価値があることだ。「やっと謙虚になった」と言えるうちはダメである。