カメキチの目
あれから43年。
よくもった。
いや、まだ「熟年離婚」というのもあるから、油断してはいけない。
私は年齢的には「熟年」ではありますが、「じゅくした」という感じはしていません。まだまだまだ人間として「未成熟」なので、気を引きしめなければならない。
いつ、「あのときの気のゆるみがいけなかった…」と後悔するハメになるやら…
先日、結婚して3か月目に旅したところを訪ねた。
そんな大昔のことだから、これまで、私たちの話題にはそれなりにのぼってきていた。死ぬまでには再訪したかった。
「そうだった、そうだった!」
そのときの思い出で私たちがいつも一致するのは、泊まった宿で出された食べきれないほどの魚料理のこと。
そこは湾に面した岬。
43年前。電話で予約もせず訪ねた小高い山の上の宿は満杯で断られた。
「しかたなく坂道をトボトボくだったね」とサイ(妻)は覚えているのだが、私はまったく覚えていない。
肩を落として歩いているとき、ひょっとしたら言われていたかもしれません。「ちっとも頼りにならんわ」
そう言われ、離婚にいたっていたかもしれない(言われなくてよかったですね)。
そうならなかったのは、彼女の「私はこんな男を選んでしまったのか。見抜けなかったのか」という人生の大問題を後悔したくなかったせいだったか、と今は思われます。
野宿とはいかない。それは真冬の一月のことだった。私は男。自分だけならまだしも…それからどうしたかも私は覚えていない。
だが、そのあたり、宿はほんの数えるほどだったと思う。
幸い、ある民宿に泊まれることになった。当然、とび上がるほど嬉しかったはずなのに、それも思い出せない。
思い出されることはただ一つ。旅全体を通じて、この民宿で出された、若くてピチピチした当時の私たちと同じくらい新鮮な魚介類だけ。
食べきれないほどの海の料理。ともかく、スゴかった。
こんどの旅を終えての私たちの会話。
「あのころ。刺身など食べることはめったになかったし、食べても少しだったから、豪勢に思えたのかな」「ウンウン」
その印象があまりに強すぎて、他のことが思い出せないのだろう。
歳とって感じる確かなこと。
①ほかの人には何でもないような小さなことでも、スゴい!と喜べるときには悲しむことは幸せだということ。
②それから、こうして書いていて思ったことですが時の流れというのは、じつにいいということ。
時間がたって、“死”に近づく。
死ぬきっかけや人生の長短は人によりさまざまあるけれど、みんな“自然”に溶けてゆく。還ってゆく。