カメキチの目
第2章 「理想の子ども」を選べるなら
■ダウン症の妹とともに
■「新しい出生前診断」の広がり
■望ましくないもの、は何か
■「いのちを選ぶ」ことを支える医師
■誰が「決め」、誰が「選ぶ」のか
■着床”前”に選ぶ
■いのちを選ぶ社会へ
■「種」のあり方を変える優生学
■「新しい優生学」のゆがんだ視点
■未来の世界で人類は
第2章は10節で成り立っています。
「理想の子ども」と「選択」がキーワードです。
なぜなら、「子ども」はいのちそのものであり、未来だからです。「選択」はまさに意志の働きであり、どうする、どうしたいのかを決めることだから。
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「ママのところはマパっていう。…ちょっとへんだね。いぬはあ「ワンワン」鳥さんは「チッチー」ゾウは「ゾウタン」…「どうぞ」もじょうずにいえる。いっぱいしゃべるようになったね。梓のことはやく「おねえちゃん」っていってね。…」
13歳のお姉ちゃん(梓ちゃん)が妹の桐子ちゃんに語りかける詩 『ようこそダウン症の赤ちゃん』より
おなかの赤ちゃんに先天的な異常がないかどうかを調べる検査を「出生前診断」といい、手軽で確実性の高い「新しい出生前診断」(NIPT 非侵襲的出生前遺伝学的検査)が、2013年から日本でも始まった。
社会的な背景に、女性の晩婚化(遺伝情報を担う染色体の変異が、赤ちゃんを生むときの年齢が高いほど出やすい)や働き方・ライフスタイルの変化があるといわれている。
ところで、
「子どもがほしい」と願っていた妊婦さんは、妊娠がわかったとき「子どもを授かった」と感じ、喜び・嬉しさの感情につつまれる。なにものかに感謝したい方もおられるに違いない。そういう幸福感がその妊婦さんを「母」にし、生理的にもさまざまなホルモンの分泌につがってくる。
が、
NIPTが広く普及してくると、妊婦さん(ひとりのときもあるが、パートナー)は先ずNIPT自体を受けるかどうかの選択を、検査の結果によっては「生む」「生まない」の選択を迫られる。
その際、NIPTを受け、その結果のもとに中絶が選択されるとき、その胎内に宿ったいのちは「望ましくない」とされる。
(もともと「人工妊娠中絶」は、理由はさまざまでも、妊婦さん本人が子どもを望んでいなかった際に行われるものである)
そのいのちは、なんで「望ましくない」とされるのか?
いくら自分の胎内に生まれたといって、そのいのちはその妊婦の「所有物」なのだろうか?「所有物」なので、どうにでもしてよいのだろうか?
著者は危惧する。
NIPTなど、遺伝子工学の応用で生殖技術が発展し、いのちが、「授かるもの」から「選び取るもの」へ変わる可能性をはらんできたことを。
このことは、たんに「生むか」「生まないか」を超えて、いのちをどう捉えるかという、根本的なみかたにつながっている。
もっといえば、そう考えている自分を離れたところでの学問(の問題)ではなく、まさに自分自身のいのち、「アイデンティティ」の問題なのだ。
「望ましくない」とされた、具体的には異常が見つかった場合、その妊婦さんはとてもつらく、落ち込む。限りないほど悩む。
悩みに悩んだすえ中絶を決意したとき、そのつらさ、悲しみ、苦しみはとてつもないに違いない。私は男性なので、女性のからだの奥底からのそれは、実感としてわからないのではないかと思う。
そのとき、産婦人科医をはじめまわりの医療スタッフはけっして「いのちを選ぶ」ことを支える側に立ってはならない。
その妊婦が選んだ道は、「望ましくない」とされたいのちがめでたく生をうけ、障害を持った子どもとして生きていくには、社会の現実、彼女の現実があまりに厳しいことをよく知っているからである。
「授かった」いのちを手放すこと、中絶の悲しみのまっただ中にある彼女を、医療スタッフは支えなければならないのだ。
「望ましくない」とされたいのち。
ギリギリのところで「生むか」「生まないか」を(どの妊婦さんも)選択したに違いないと信じることを前提とした上でなお、著者は問う。
誰が「決め」、誰が「選ぶ」のか?
「いいではないか、生むか生まないかは個人の『自己決定』の問題」だと、一見、「個の尊重」のような意見を言う立場もある。
しかし、その場合、個人というのは親であって、生まれてくる子どもではない。
ここには、障害を持って生れ、生きていくのは、本人にとって辛いことだ、だから初めから生まれないほうがよい、という無意識の「常識」「『善意』」がある。しかし、これはほんとうにそうなのだろうか。
そもそも、「自己決定」「これは自分で決めた」とかいってはいても、それはほんとうに自分で決めているのだろうか。実際の姿は「選んだつもり」「決めたつもり」なのではないだろうか。
人は生きるなかでどれだけ「これは自分で決めた」「自分で選択した」と言えるのだろか?
たくさんあったらまた違うかも知れないが、実際はとても少ない選択肢の中から「決定(選択)せざるをえなかった」のではないだろうか。
中絶を決めた妊婦さん。心の中では、「私の生活がもう少し余裕があったらなあ」「この街がもっと障害があっても暮らしやすかったらなあ」と思ったかも知れない。もしそうだったとしたら、彼女は生んで育てることを選択していたかも知れない。
ちょっとしたボタンのかけ違い、ひょっこり現れた現実で、人生は大きく変わる。
私は10年前の、いまの障害につながった突発事故を思うたび、何が「幸せ」か何が「不幸」か。わからんことよのぉ~と思う。
著者は、「授かりもの」という言葉にはわからないもの、思いがけないもの、人知を超えたものという意味が含まれていると言う。
まるで仏教のある根本的な観念をさしているみたいです。もちろん、「授与者」は神仏なのですが、私の好きな仏教学者さんは「預かりもの」という言葉で言い換えておられました。
つまり、子ども、いや人間はもともと神仏のものだが、地球にいるひとときだけ、その子をあんたに預けた(生む)のだというわけです。
話がそれてゴメンなさい。寄り道ついでにもう一言。この方は、「子ども」だけでなく、「人生」も「預かりもの」ととらえることをすすめます。
「生まれる」ということの本質には、こうした「受け身」「受動性」が含まれている。
「生きる」ということもそうだ。
生きていくなかで、いろいろな出来事が起きる(なかには、あとで思えば人生の岐路だったようなこともあるだろう)。そのたびに、「生きている」こと、つまりいのちの恵みを感じ、そのいのちは自分だけのものではない、ひとりで生きてきた(いる)わけではないことを自覚する。
そのなかで、他人に対する思いやりが生まれ、連帯心や謙虚さなどが育っていくのだろう。
長くなり、すみません。■着床”前”に選ぶからあとは次にします。