カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2016.10.11  心配してもしかたない? 未来のこと⑧

 

                                                  カメキチの目

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着床前診断」というのは、NIPTどころではない。

 

 NIPTはダウン症につながるなどの特定の染色体の異常を調べるもので、妊娠初期に行われるものだったが、「着床前診断」は、なんと驚くなかれ、(診断名のごとく)子宮に受精卵が着床する前に遺伝子の状態を調べ、生むかどうかだけでなく、妊娠までもコントロールしようとするものだ。

 まさに、「神の領域」に人間は手を出した。

 

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 それには受精卵を体外で調べる必要があり、受精自体を完全に体外で人工的に行う(体外受精)ことになる。

 受精卵の検査の過程で、

何らかの好ましくない要素が発見された受精卵は子宮に戻さず(捨て去る)、好ましいと判断された受精卵は着床される。 生むか生まないか?→”産み分け”

 

 その果てには?

 着床前診断がどんどん拡大されてゆくと、どんなことが起こるか。

 着床前診断で調べることができるのは病気の因子に限らない。受精卵の遺伝子検査では、そのゲノムの全体を調べる。

 ということは、生まれてくる子どもがやがてどんな人間になるのか(もちろん、あくまでも体のレベル)詳細に知ることが可能になる。

 ということは、親が”遺伝子レベル”で好ましいと思う子どもをつくりあげることができる。→”デザイナー・ベビー”

前にNHKテレビで、『デザイナー・ベビー』という、病院で赤ちゃんが盗まれるというサスペンスドラマがありました。そのとき初めはある「デザイナー」がある「ベビー」を自分の子どもにしたいがために連れ去るのかと思いました。ベビーをデザインするというおぞましさを、このドラマで実感しました。

 

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 著者は、「デザイナー・ベビー」に象徴される問題は、単なる個人の「理想の子ども」像を超えて、生物「種」としての人類の未来に関わると、強く危惧する。

 

 ダーウィンの『種の起源』が世に出て、進化論が広く社会に知られるようになると、それを人間に適用し、「種」として進化させようと、「優生学」なるものが生まれた。

 もともと(はじまり)の「優生学」は第二次世界大戦の前だったので、今日のように生殖に関わる技術が発展していたわけではなく、「優秀な種を『保存』する」という目的で結婚相手を分けるといった簡単なところから始まり、「望ましくない種は『保存』とは逆の『断種』」、つまり「種を断つ」にいたり、苛烈な差別が行われた。

 そして、これ以上はない差別がナチス・ドイツユダヤ人皆殺し、ユダヤ人という特定の「人種」の絶滅政策にまで広がった。

他人事ではありません。日本でも、遺伝性疾患ではないにもかかわらず、ハンセン病の人たちに対する過酷な優生学的差別が戦後も行われ続けたというたいへん苦くて重い歴史があります。

 

 今では不当とされ、反省したとされる「優生学」であるけれど、着床前診断のように、種のあり方を大きく変えてしまうほどの影響力をもつ現代のバイオ・テクノロジーの進歩・発展は「新しい優生学」を生みだす恐れがある。

 その恐れ、心配は現代ではないと主張する側は、「かつての優生学では国家権力などが介入し、人々を”品種改良”した点に問題があった。しかし現在は、個々人の自由意思による選択の結果として優生学的変化が起こるのであり、何ら暴力的な強制はない」と説明し、「新しい優生学」を推し進めようとしている。

 

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 このような動向に対して著者は言う。

 新旧にかかわらず、「優生学」というものは意識するとしないにかかわらず、「社会にとって荷物となるような人間が存在することは好ましくない」という思想がある。

ちなみに、この本は3年前の4月から2年間、NHKの『きようの健康』にテレビテキストとして書かれたものです。その1年ちょっと後のこの7月、あの何ともおぞましい相模原障害者殺人事件が起きました。植松容疑者はヒトラーに心酔していたらしいですが、典型的な「優生主義者」であったのでしょう。

そもそも「社会にとって荷物となるような人間」とは、どんな人を指すのでしょうか。確かに平気で犯罪を犯し、いくら更生の機会を与えられても立ち直れない人たちもいるのかも知れませんが、そういう犯罪を生みださないような社会を(たとえ遠い、いつ来るとも知れない未来であっても。そんな理想の世の中は永遠に来ないとわかっていても)目指せばいい。

「社会的弱者」(「障害者」「難病者」…)と呼ばれる人たちの存在は、「荷物」どころか、「関係」「つながり」の中でしか存在しえない人間というものを人間たらしめるものではないでしょうか。私は障害者の立場からそれを実感しています。親切を受けるばかりで、お返しはそっと心で掌を合わすしかありませんが、障害の姿をさらけ出し、人さまの親切を引き出させていただくことも障害者としての自分の役目かと思っています(ヘンな表現でゴメンなさい)。

同時に、人間は自然の中でしか存在し得ない。ほかの動植物との共存なくしては存在し得ないことも。

 

 ちょっと想像を逞しくしてみよう。

 社会的地位があり、経済的に余裕のある人たちは、ふつうなことのように「着床前診断」による選別を行う。それが、何世代にもわたって続くと、ホントに進化論的な意味での「新しい人種」が生まれる。

 かたや一般庶民は貧乏だからカネもなく、病気や障害などのハンディもあって人為的な選別(着床前診断)を行えず、従来どおりの自然な生殖を続けてゆく。

 こうして未来社会においては、オリンピックは行われておらず、「人類は一つ」という事実は、遠いとおい過去のこととなる。

 

 私は③において、「1980年代から始まった社会の二極化、わかりやすく言えば「格差」のことだが、固定化し、更にさらに進み、未来はふつうの人間(『ナチュラル』と呼ばれる)と、遺伝子改良人間(『ジーンリッチ』と呼ばれる)の二つの階級に大別される」と、著者の言葉を書いた。

 

 この話をSF的な物語とバカにする気は今は失せた。

 

                  ちりとてちん

 

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