カメキチの目
第7章 つながりのなかに生きるいのち
残すところ、あと2章です。
長いおつき合い。ありがとうございました。最後までお読みくださるようお願いします。
(マミーさん、この本お読みくださりほんとうにありがとうございました。ちよっと自分なりにねじ曲げて紹介したところもありますが、おゆるしくださいね)
この章では、前の章が「いのちの始まり」について触れられたのに対し、「いのちの終わり」ということを、とくに「脳死」と「臓器移植」という具体的な問題とのかかわりで考察が進められています。
「脳死」とは、
「呼吸や心臓拍動など、脳のなかでも生命活動のもっとも根本的な部分を司る脳幹を含んで、すべての脳の機能が不可逆的に停止すること」
と定義されている。
脳死に至ると、人工呼吸器がなければ生命活動は維持することはできない。
欧米では「脳死は人の死である」ということが比較的疑問を抱かれることなく受けいれられ、肝臓や心臓などに重篤な病気や障害のある人に、脳死した人のからだから臓器移植を行う、ということが”善意による慈恵の医療”として広く行われている。
日本でも1990年前後に、脳死臓器移植の法制化をめぐって活発な議論が交わされた。92年には脳死臨調答申が出されるという形でまとめられたが、そこには「脳死を人の死とすることには疑問がある」という見解が付記された。
これは、日本では脳死を人の死とは認められないという人が、かなりの割合で存在することを示している。
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ところで、なぜ欧米では「脳死を人の死」と比較的受けいれられているのだろうか?
その原因に次の四点を著者はあげる。
①理性を優先する二元論的思考
②科学に対する信頼感
③死は個人の意識
④キリスト教の「隣人愛」
①:デカルト的なみかたの影響もあり、西洋では早くから「人間は神に近い存在で、他の被造物とは大きく異なる主体性をもっている」という考え方があった。
これは、いのちとモノには区別があり、さらに同じくいのちといえども(③にも深く関連するが)、自分というもの(個人としての私。主体性)を意識する理性的存在としての人間のみかた、とらえ方である。
つまり、主観と客観、精神と物質、霊魂と身体、…などモノゴトを二つに分ける二元論的世界観が深く影響している。
しかし、日本の文化では、心と身体はそう明確には分けられない。だから、脳が機能せず、死に近い状態になっても、身体が生きている人間を死者として扱うことには疑問がある。
また、人間だけでなく、「生きとし生けるものは…」という生き物すべてのいのちを尊び、生き物でなくとも、万物にはみな魂が宿っているというアニミズム的な信仰や風習・伝統がある。
たとえば、ある山を「ご神体」としたり、ある木を「ご神木」といって拝みます。
生物でなくとも、そこらに転がっている石さえ、なにかの霊魂や「ご利益」があると感じる人が現れ、崇拝の対象としてしまうこともしばしばみられます。
②:欧米社会は近代科学のおかげで大いに発展してきたので、人為的な科学の力によって自然に手を加え、それによって人類の幸せ・福祉を増大するという「科学に対する強い信頼感」を抱くようになった。→科学万能
「臓器移植」も、医学という科学の輝かしい成果とされる。
「バイオテクノロジー」が夢のような治療を生んでくれるのは大歓迎です。万能細胞をつかった治療でも、遺伝子治療でも、医療の本来の目的である「治療」を目指してくれるばかりならば、万々歳です。
しかし、いま大きく騒がれている「人工知能」も、「バイオテクノロジー」と同じく、ブレーキが必要かと思われます。よくいわれるように、なんでもアクセルばかりではいけないのではないか(もっともアクセルとブレーキの踏み間違いはいけません)。
その「人工知能」。いま現在も今後も多くの分野で期待されています。
たとえばオリンピック。
先日、テレビニュースで、東京オリンピックでの獲得メダル数をかせぐために、活躍が期待されるスポーツ分野での応用を目指し、「人工知能」の研究・開発が行われている現状が伝えられていました。
・いかに効率よくトレーニング、練習をするかについて。どういうとき、どういう場 で、どの筋肉がどの程度つかわれるか。
・勝負競技で勝つためには、相手の(チームなら個々人についても)膨大な情報(ビッグデータ)を集め、科学的な精緻極まる分析を行い、どういうとき、どういう場で、どんな動きをするのが適切なのか、…などをあきらかにし、選手のプレイに活かす。
(オリンピックというものがメダル獲得数を競うものであることを、遅ればせながらこの歳になって初めて知りました)
「バイオテクノロジー+人工知能」の究開発・発展とも相まって、100メートルを、いずれ8秒、7秒どころか、5秒も切るのも夢ではないのですね。もちろん、人間が。
③:「個人が自分自身を意識している」ことを、生きていることの証しとするみかたのこと。
すると、意識を失った状態というのは、個人としての生が消滅している、すなわちこれを死とみなしていいということになる。
しかし、生きているということは本当に個人の意識だけに還元されるものなのだろうか?と、著者は考える。
「死」というものを自分とのかかわりということで深くとらえたとき、人称的ないい方がある。
すなわち、「1人称の死」とは自分自身の死。「2人称の死」とは、身近に経験する近しい人の死で、しばしば感情を伴なう。「3人称の死」とは、自分とは直接にかかわりのない他者の死。ニュースなどで見聞きする死。
この場合、「2人称の死」という視点で脳死をみると、「個人の意識の消失」をもって人の死と認めることに、抵抗を感じるのではないか。
「死」という事実を前にしても、感情的にすぐには受けいれがたい。
人間の死とは、死というプロセスを、生物学的・客観的にみれば確かに生き物としての個人が死んでゆく過程ではあるが、同時に「人と人との間で経験されるもの」であり、仏教でいう「縁」を思い起こさせるのではないか。
たとえば、この人(死んでゆく方)とはこんなふうに出あい、数々の思い出をつくったなぁー、と。
さまざまな存在は、決してそれだけでは存在し得ない。
日本人にとっては、生きることも死ぬことも、人と人とのかかわり、縁のなかでこそ生じるという感覚が身近なのではないか。
④:キリスト教の文化においては、他者に善をなすことが倫理的な義務として高く評価され、「最後の審判」における救済の条件であると考えられている。
だから、死に際しても、「人のために役に立てる」ということに高い価値を見出そうとする。
なのに、どうして「十字軍遠征」とか、宗教戦争とか絶えなかったのでしょう。
遠い昔のことでなくても、いまも「隣人愛」のために戦争が行われ、テロがはびこっている。
【おことわり】
しばらく旅に出ます。
みなさんところにおたずねできず、ゴメンなさい。