カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2016.11.13 莫妄想

 

                                                  カメキチの目

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  久しぶりに禅語を書きます。 

 

 

          ‐莫 妄 想‐
                
(まくもうぞう)

 

「莫」は「莫(なか)れ」ということなので、妄想するな!ということです。


  あれこれ思い込んだり、悩んだり…、自分勝手に頭の中だけの世界に閉じこもってはダメだ。
することやすべきこと(実践)もしないで!

  たとえ、その結果が思うようにいかなくても、つまり「失敗」に終わったとしても、いつまでもそのことに囚われない、執着しない

 ところで、

 なにをもって「失敗」というのか?

 なんの「失敗」なのか?

 そのとき・その場の自分に不都合な、望まない結果を「失敗」というのだろうか?

 

 が、それは「主観」であり「妄想」(思いこみ)とも言える。

 確かに客観的には不利な事態に陥ったとしても、 別な目から見れば「失敗」かどうかわからない。

禅的な見方からすれば、そもそも「成功」「失敗」という両極的な決めつけ自体をやめようということになります。

(恐縮ですが、私の経験からいって、歳をとると若いころとずいぶん違います)

若いときは血気盛んで、早く結論を出したがったり、「黒白」決めつけ、「灰色」を「妥協」とか「曖昧」として認めたくない。

ですから、「自分はまだまだ経験が足りない。未熟だ」(いつまで経ったら「熟達」するかはきかないでくださいね)「まだまだ、答え(結論)はだせない。一生、出せないかもしれない」と、いつも自分を相対化することがたいせつだと思います。

歳をとると変わるのです。少なくとも私は変わりました。



  結果など過去の場合だけでなく、未来という未だ来ぬ先のことを、想い煩うのもいけないと説く。

 心配が高じて、それが妄想につながって心を曇らせるわけだから。

 

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ですが、

(自分という人間のごく小さな範囲の世界はそうなんですが)「社会」とか「地球」「世界」に想いをいたらせば、「莫妄想」とはいきません。さきにトランプという人物が次のアメリカ大統領になったのは「妄想」ではありません。

ずっと昔、新聞で「あした世界が滅びるとわかっていても、私はオレンジの樹を植えよう」(イスラエルの古くからの言葉)というのを知り、ショックを持って受けとめました。

この前、本を読んでいたら、似たような言葉に出あい、またまたパンチを食らわされた思いになりました。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」(ガンジー

 

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そう考えると、ブログを書くことも、もっと息が抜けそうです。

 

 

 

                  ちりとてちん

 

 海、湖、川、池、水溜りなど、水の風景①

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その② 

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その③ 

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