カメキチの目
久しぶりに禅語を書きます。
‐莫 妄 想‐
(まくもうぞう)
「莫」は「莫(なか)れ」ということなので、妄想するな!ということです。
あれこれ思い込んだり、悩んだり…、自分勝手に頭の中だけの世界に閉じこもってはダメだ。することやすべきこと(実践)もしないで!
たとえ、その結果が思うようにいかなくても、つまり「失敗」に終わったとしても、いつまでもそのことに囚われない、執着しない。
ところで、
なにをもって「失敗」というのか?
なんの「失敗」なのか?
そのとき・その場の自分に不都合な、望まない結果を「失敗」というのだろうか?
が、それは「主観」であり「妄想」(思いこみ)とも言える。
確かに客観的には不利な事態に陥ったとしても、 別な目から見れば「失敗」かどうかわからない。
禅的な見方からすれば、そもそも「成功」「失敗」という両極的な決めつけ自体をやめようということになります。
(恐縮ですが、私の経験からいって、歳をとると若いころとずいぶん違います)
若いときは血気盛んで、早く結論を出したがったり、「黒白」決めつけ、「灰色」を「妥協」とか「曖昧」として認めたくない。
ですから、「自分はまだまだ経験が足りない。未熟だ」(いつまで経ったら「熟達」するかはきかないでくださいね)「まだまだ、答え(結論)はだせない。一生、出せないかもしれない」と、いつも自分を相対化することがたいせつだと思います。
歳をとると変わるのです。少なくとも私は変わりました。
結果など過去の場合だけでなく、未来という未だ来ぬ先のことを、想い煩うのもいけないと説く。
心配が高じて、それが妄想につながって心を曇らせるわけだから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ですが、
(自分という人間のごく小さな範囲の世界はそうなんですが)「社会」とか「地球」「世界」に想いをいたらせば、「莫妄想」とはいきません。さきにトランプという人物が次のアメリカ大統領になったのは「妄想」ではありません。
ずっと昔、新聞で「あした世界が滅びるとわかっていても、私はオレンジの樹を植えよう」(イスラエルの古くからの言葉)というのを知り、ショックを持って受けとめました。
この前、本を読んでいたら、似たような言葉に出あい、またまたパンチを食らわされた思いになりました。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」(ガンジー)
そう考えると、ブログを書くことも、もっと息が抜けそうです。
海、湖、川、池、水溜りなど、水の風景①
その②
その③