カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2016.11.29 やがて死ぬけしき 

                                                  カメキチの目

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 いつでも(いい加減な)まじめのつもりだが、「つもり」でなく、まじめに考えてみた。

 

「どう生きるべきか?」と、若いころから考え、それなりに悩みもしたが、いまだにわからない。

もうこの年齢だから、たとえいまからわかってもしかたないか。

生きなおすわけにはいかないし。

 

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 わからなくて、昔からいつも答えは堂々巡り。

 しかし、しかし…だ。

 結論は出なくても、

 本来のオリンピックが「参加することに意義がある」ように、「考え」「悩む」ことに意義があるのではなかろうか、と居直った。

いや、「意義」とか「意味」。そんなものどうでもいいですね。ただ考えた、悩んだという「事実」が自分にとって意義深い。?…

(それに、「継続は力なり」で、考え悩み続けていれば、ヒョンな閃きがないとも限らない)

「自分にとって…」ということを、よく「自己満足」というけれど、(それが広く認められる、評価されるのにこしたことはないけれど)狭い範囲、ごく身近なまわりだけであってもとてもいいことだと思います。「自信」、「矜持」になるから。

 

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 この前、『やがて死ぬけしき』という大好きな禅僧兼作家の玄侑宗久さんが古来からの日本人の死生観というものについて書かれた本を読んだ。

 

やがて死ぬけしきはみえず蝉の声」 芭蕉

 

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 玄侑さんが大好きな荘子が、この句の下敷きにあるらしい。

 荘子といえば有名な「胡蝶の夢

荘子が夢の中で胡蝶になり、自分が胡蝶か、胡蝶が自分か区別がつかなくなったという。自分と物との区別のつかない物我一体の境地、または現実と夢とが区別できないことのたとえ〉とネットにはあります。

 要は、人生は夢のようなものだ、ということ。

 老いると、自分のホントの正体はチョウチョだろうかと、朝の起床で頭がボーとしているとき錯覚しないでもない。

錯覚であってほしいと、祈らずにはおれないような悲惨な実態が、この前のニュースで報じられていました。知ってはいたけれど「少年兵」。

isが支配するイラクのモスルという街。奪還するためにイラク軍が攻勢を強めている。抵抗するisは「天国へいけるから」と、あどけない中学生のような少年を自爆させる。その映像がテレビに流れた。身体が震えた。

 

 命や人生。

 あまりこだわり過ぎるのもどうかと思うが、さりとて、天が与えてくれたと思い、「天命」だと思い、ていねいに生きねば…

 

 この本で、玄侑さんは「天寿」と「夭折」ということも触れられていた。それは玄侑さんの独断と偏見かもしれないが、だいたい50歳を境に、それより長く生きれば天寿をまっとうしたとなり、それより若くして逝けば夭折といってよいと思うと述べておられた。

 私も同感だ。

 だから、若い方の死はとても敏感になる。

 

 ニュースで、80歳過ぎたお年寄りがブレーキとアクセルを踏み間違えて3,40代、あるいは子どもをはねたと聞くと、たまらなくなる。

人工知能」「自動運転」もけっこうだけど、急なアクセルは瞬時に自動的に止めるようなシステム、装置の開発なんて日本の自動車技術ならチョチョイのチョイだと思うけど。

 

 

                  ちりとてちん

 

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