カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.4.5  『強い者は生き残れない』

 

 

                                                  カメキチの目

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 実生活が単調で、動くことがきわめて少なく、ナマコ然としています。

ずっとナマコでいたいのですが、「銃剣道」も「教育勅語」もあり、おだやかではおれません。

銃剣道」「教育勅語

誰が何のために、こんな、今まで持ち出されなかったようなものを出してきたのでしょう?

 

初めから横道にそれ、すみません。

ブログを始め、狭いせまい自分の世界が広がった。

なかに、生物のことを書かれている方がいる。その方のおかげで、「生物」について知りたいと思うようになった(「少年シニア」さん、ありがとうございます)。

 

『強い者は生き残れない』という本を読んだ。

「きっと題名にひかれたんだろう」と想われたでしょうが、そのとおりです。

 著者は吉村仁という生物学者

                                    

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また本題から少しはなれますが、前置きとしてお聞きください。

  10代の終わりころ、ベトナム戦争があった。

 アメリカが遠く離れた沖縄の米軍基地までやってきて、そこから海兵隊爆撃機で飛び立って、ゴキブリのようにベトナム人を殺した。

アメリカはベトナムから出てゆけー!」「沖縄を返せー!」と叫び、はんぶん本気で「革命」を夢みた。

 沖縄に軍事基地がなければベトナムの人たちは殺されなかった。枯葉剤を撒かれ、べトちゃんドクちゃんのような下半身がつながった結合双生児が誕生することもなかった。

 戦争は理不尽なアメリカがベトナムから去り終結した

が、「革命」は夢に終わった。

 

 東西冷戦がとけた。

フタを開けば、

「革命」で目ざしていたもの、人間社会の理想だと思っていた社会主義共産主義は、腐りきっていた。人間の在りようは資本主義と何ら変わっていなかった。

現代でも北朝鮮をみれば「粛清」「暗殺」があり、昔は「拉致」がありました。「拉致」は北朝鮮国家による「人さらい」「誘拐」。なんともたまりません。

「革命ゴッコ」に燃えていた若かりしころ。「反帝」《国主義》と並んで「反スタ」《-リニズム》もかかげ、理想社会に生きるには権力の中枢にいようがいまいが、後ろ指をさされるような人間になってはいけない、永遠に《死ぬまで》自分を変えなければならないという「自己変革」がだいじだと思っていました(バカみたいに純朴だった)。

 

 しかし、いい夢だったと今も思っている。

 革命は夢についえたが、目ざした理想は夢で終えたくない。

 いつか、地球は平和で平等な世界になっていてほしい。

 そうならない限り、「人間」という一生物種の未来はない。

「絶滅」しかない。

 

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     註:地味な服ではありません。原子爆弾水素爆弾の破裂しているところ。

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ここから本題。

 同じ生物だからといって、人間をほかの動植物と同じ次元、レベルで扱ってはならないと、昔は思っていた。けれど今は変わった。

 昔ほど「絶対的」なものではなく、さほどたいせつな違いとは思わなくなった。境界がボヤけてきた。あいまいさは増した。

 

 この本を読んで、人間と人間以外の生き物との区別がいっそう怪しくなった。

 

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 著者は生物学者なので、その道の専門家らしく、でも一般の人もわかりやすいように、生物の世界に興味・関心が持てるようにおもしろく楽しい具体的な話もまじえながら、主張したい考え、思いを説いてゆく。

 

 話は多岐にわたり、さまざまな具体的な研究や、世界の生物学会での定説となっている考えや、まだ仮説段階のそれが紹介され、とてもおもしろい。

 が、著者のいちばん主張したいことは、それが書名ともなっている「強い者は生き残れない」である。

 

  吉村さんは、生き物の存在の究極の目的は、「生き残る」ことだという。種の持続。

 そして、その目的の達成は「環境への適応」だという。

 人間はいちばん「進化」した生き物とよく言うけれど、著者は、それは言いかえれば、地球という環境にいちばんよく適応してきたからだという。

 

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 人間を含むすべての生き物は、自分より弱い立場の生き物を食べ、生命を維持する。

 その個体、種が生き残る、持続する生態をさして「弱肉強食」という。

 それは生物の生存論理で絶対的なものである。

 

 が、それはより大きな視点でみれば、「共生」ともいえる。

 生き物は(いまの場合、「強者」を指すが、「強者」「弱者」の区別じたいは相対的なもの)餌とし、エネルギーとする「弱肉」が生存・存在しているからこそ、自らが生存・存在していけるのである。

 生態系のなかではちゃんと辻褄が合っている。

「いのちの循環」が成り立っている。

 

 人間は長いながい先史時代は食うのに精いっぱいだったから協力し合わねばならず、リーダー(首長)はいてもみんな平等だった。

 しかし、歴史時代に入ると、つまりちょっと余裕が生まれると(剰余ができると)、互いに欲とくをめぐり争うようになり、一部の者がほかを支配するまでになった。

 けっきょく、なんのことはない、人間も生き物であり、「弱肉強食」の論理を脱することはできなかった。

 いちばんはじめに、それまでみんなの所有(共有)、平等だった土地が誰かに「こことったー」と囲い込み、次に「戦国」「下剋上」が起こり、戦い《殺し合い》をずっと続けると行き着くのは「共倒れ」なので、「合理的」「冷静に」解決、和睦するために人類は「法治社会」「契約社会」をつくった。「人権」や「民主主義」などを「発明」した。

 いまの人類の段階、人権や民主主義の段階では経済的に富める者と貧しい者がいるのはしかたない。

と、シブシブながらでも私も認め(というか諦め)、

ともかく、人類の絶滅、共倒れだけはなんとか防いだ。

 ウカウカすれば、そのうち自らの首を絞めるところだった。

いや、ウカウカしているのかもしれない…

 

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 著者によれば、人権や民主主義などというのは「共生」ということである。

 つまり、人間とほかの生物との関係でもある「共生」とは、人間のあり方、人間同士の関係、社会のあり方でもあらねばならない。

 

本来的に弱い存在としての生き物は、互いに手をとり合い、支え合い、協力し合わなければ、生き続けられないということだろうか。

 

強い者は生き残れない」

 

                   ちりとてちん

 

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