カメキチの目
いま急激に、日本国憲法が危うくなっている。
ひと月いじょう前、「憲法記念日」があった。その翌日の朝日デジタル新聞に
(憲法を考える)施行70年 憲法は芸術だ 作家・作詞家、なかにし礼さん
という記事が載った。お読みになった方も多いとは思うけれど、私はとっても胸をうたれた。
現在の日本国憲法のすばらしさを、法学者や歴史学者が専門的・学問的に論じたものじゃなく、ミュージシャンが身近な、庶民の感覚で語っておられた。
あまりにすばらしかったので、少し長いですが紹介させてください。
「理想の実現は簡単じゃない。でも理想を忘れたらむごたらしい現実しかないんです」
数々のヒット曲を作詞、映画やオペラでも活躍した作家が、がんと闘いつつ、旧満州での加害体験を小説で描いた。体験や創作活動を振り返り、「芸術作品」と表現する憲法への思いを語った。首相が改憲に向けた具体的な考えを示した施行70年の節目。悲惨な戦争と華やかな繁栄を見てきた作家は、何を訴えたいのか。
(ーーは、記者さんの質問。「」は、なかにし礼さんの応え)
― ―憲法を芸術作品と言っていますね。
「戦争をしないことをうたう日本国憲法は世界一です。特に前文は人類の進化の到達点だといってもいい。世界に誇れる芸術作品ですよ。日本語として美しくないからダメだと批判する人もいますが、私が芸術だというのは、日本人の琴線に触れる叙情詩だといっているわけではないのです。憲法は詩でも小説でもない。世界に通用させるべき美しい理念をうたい、感動を与えることができるから芸術だということです」
「正確を期すために、持って回ったいい方があったり、生硬な日本語が使われたりしているのは事実です。抽象的な理想を掲げているので、流暢(りゅうちょう)さとか、日本人が美しいと感じる文章であるかどうかが重要なのではありません。大事なのはその中身です」
「首相が、2020年に改正した憲法を施行したいと明言したと聞き、驚きました。首相は憲法を尊重し擁護する義務を負っているのに、改正の期限を切るなどというのは、大問題ですよ。しかも、9条を含めて改正しようというのは、もってのほかです。この憲法の理念と理想は世界の人びとにも感動を与えることができる。最初は理解されないかも知れない。でも、説得して、少しずつでも世界に広めていくことです」
――『時には娼婦(しょうふ)のように』『天使の誘惑』といった、甘美な愛の歌を生みだしてきた芸術の世界と関連するのですか。
「私のことを軟派なエロじじいと思うかもしれませんが、愛は人間に与えられた最高の幸福ですよ。エロスは人を愛すること。人が人を愛し、歓喜を味わう、それが平和。エロスがなければ平和もありません。私の中では一貫しています」
「人を愛することは基本的人権の謳歌(おうか)であり、場合によっては、権力に対する最大の反逆になり得るのです。政府が市民を統制し監視する社会を描いたジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』や戦前の日本を持ち出すまでもなく、権力は究極的には、個人が国以外を愛の対象にすることを拒絶したい。恐怖で個人を縛り上げようとします。それに抵抗することなのです。こうしたことを理解して、憲法の前文を大事に思う人が増えてくれるとうれしいですね」
――平和を強く意識するようになったきっかけは何でしょうか。
「私の人生の土台をつくったのは戦争の体験です。戦後、うれしいこともいっぱい経験しましたよ。でも、戦争以上の強い体験はないんです。個人は国家に翻弄(ほんろう)され、捨てられるものだと経験しました。3回ありました」
「私は満州で生まれました。家族は北海道から満州に渡って酒造りをして、関東軍に納めていました。しかし、無敵の関東軍は、日本の国民を守ってくれませんでした。1945年8月8日にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻を始めたとたん、関東軍は百数十万人の居留民を置き去りにして逃げました。それが最初の棄民経験です」
「2度目は、日本国政府に見捨てられました。ポツダム宣言を受諾した8月14日、外務省は在外機関に訓電を打って、居留民はできるだけ現地に定着しろという方針を示すのです。日本国内の食糧も少なかったからでしょう。3度目は政府が引き揚げ事業を積極的に行わなかったことです。居留民は自主的に収容所をつくって身を寄せ、金を集めて、アメリカ、中国の国民党と共産党、ソ連と掛け合いました。日本に帰る事業が始まったのが46年の夏です」
「改憲を訴える政治家たちは、個人よりも国家を優先させたいようですが、その先にあったのが棄民です。地獄のような体験をし、何度も命の危険にさらされました。機銃掃射が頭の30、40センチ先を走り、30メートル離れた所で爆発があって爆風を受けました。弾丸が右耳の横をかすめたこともあります。なぜ私が生き残ったのかは分からない。運です」
――昨年発表した小説「夜の歌」で、8歳の少年だった引き揚げ時に、自らが加害者になった経験も赤裸々に描いていますね。
「がんが再発し、最後の小説のつもりで取り組んだ作品です。書いてこなかったことも、伝えるべきことは書かねばならないと思いました」
「軍用列車で脱出する途中、私たちと同じように、中国人の暴徒やソ連の機銃掃射から逃げまわっていた開拓団の人びとが『乗せて下さい』と列車に群がり、しがみついたのです。それに対して、日本刀を振り上げる関東軍の若い将校が、手を離さなければ指を切り落とすと怒鳴り、私たちにその手を振り払うように命令しました」
「私は泣きながら、同じ日本人の指を1本1本もぎ取るようにはがしたのです。開拓団の中には、当時の私よりも幼い子供や赤ん坊を抱いたお母さんもいれば、老人もいましたよ。そうした人びとを見殺しにさせられたのです」
「これまで、自分が戦争の被害者になった経験については小説にしてきました。今回は、個人が国家の犠牲になることだけではなく、国家によって同胞までも見殺しにさせられたことも実際にあったということを書きました。戦争で悲惨なことを経験させられるのは個人です。戦争に対する嫌悪感は人一倍持っています」
――個人と国家の関係をどう考えますか。
「戦前の日本でリベラルな言論人として知られた清沢洌(きよし)の戦争中の日記が、戦後、『暗黒日記』として公刊されています。ここには、政府による弾圧におびえつつ、個人の自由が束縛されていく様子が記されています。これが再現されないよう、声をあげ続けなければなりません」
「ただし、声をあげるのも個人としてです。いくら仲の良い仲間がたくさんいても、平和や憲法のことを訴えるのはあくまで個人としてで、いかなる団体や集団の一員としてではありません。ネットで他人の意見に賛同するような消極的な姿勢ではなく、一人ひとりが自分の言葉で意思を示していくことが大切なのです。なぜならその方が勇気が必要だからです」
――作家や作詞家として活躍した戦後はどんな時代でしたか。
「60年安保や70年安保もあって、社会は大きく揺さぶられ、既存の権威や古い階層構造が壊れた時期に作詞家として活動できたといえるでしょう。ジュークボックスが普及した時期で、その中ではビートルズやローリングストーンズとも戦わなければならない。そこは国際競争です。ビートルズのリズムやアメリカのフルバンドの編曲などを研究しました。そうやってザ・ピーナッツの『恋のフーガ』も生まれたわけです」
「いろいろな分野で新しい才能が出てきましたよ。イラストレーターの横尾忠則、カメラマンの篠山紀信、演劇の寺山修司や唐十郎、みんな仲良しで、親分とか師匠がいない。独立独歩でガーンと社会に出てきたのが共通点。時代がエネルギーをくれていた気がしますね。バブル時代を経て、私が歌謡曲だけでなく、オペラや演劇、小説、映画などで仕事ができたのも、日本が平和で個人を認めてくれたからでしょう。そうした個人主義が、団塊の世代のミーイズム(私生活主義)に転じてしまい、日本社会に蔓延(まんえん)し、いまに至る閉塞(へいそく)感をもたらしているのかも知れません」
――その閉塞感の先は、どんな世界が待ち受けるのでしょう。
「真珠湾攻撃前の日本は、いまの北朝鮮を考えると想像しやすいでしょう。世界からの制裁で石油や資源がない、負けると知りながら、アメリカとの戦争に突っ込んでいきました。論理と理性で動くべき政治が、その国だけで通用するオカルトの迷妄と感情に支配されてしまうと、地獄に向かって走ってしまう。閉塞した社会は、おかしな方向に出口を求めてしまう恐れがあります。北朝鮮だけのことと思わないことです」
「この気配を止めないといけません。いま、日本の指導者は『どんなことがあっても戦争は回避します』と言うべきです。戦争をしないという次元に向けてシフトを変えないから、このままではいつか戦争になってしまいます。どんなことがあっても、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう』との決意を貫く。今からでも遅くないから、憲法の理念を理解して、どんな国をつくるか、真剣に考えることです。国際政治の現実に付和雷同するだけなら『日本も核兵器を持つべきだ』という結論になるのはあっという間です。保守派は甘ちゃんだと批判するでしょうが、私は個人として言い続けます」
「孝行したいとき、親はなし」という。
憲法は老いて死ぬものではないけれど、そのたいせつさに、なくなってから気づいても、遅い。