カメキチの目
色メガネをかけて世のなか見まわしてはならないとわかっていても、相手(権力、報道など)がすでに色をつけており、透明ではないので、そのぶん差し引かなければならない。すなおであってはいけない。相手の思うツボにはまる。
もちろん「ニュース」で話題となる時事の中身、伝えられ方に対してだけのことです。
ブログ読者の方に、おとなり韓国で(北朝鮮からの)ミサイル迎撃システム導入に反対する動きがあることや、先日あった加計問題で渦中の前川前事務次官の会見を伝えていただき、私はそれらをまったく知らなかったことに気づきました(自分だけ知らなかったのか?)。
北朝鮮のミサイル攻撃があったとき、政府は広報で「Jアラート」なるもので報せるから国民は身を安全にするために…(具体策)…とテレビで伝えました。お笑い番組に比べものにならぬほど私は大笑いしました。これが笑えず、何を笑えばいいでしょう。
すなおじゃない私はそう思っている。
それでも時々すばらしい番組がつくられる。
前回も紹介したばかりなのに、またまたです。
先に、子どもの貧困問題をテーマにしていたのを書いた。
そっちが子どもたちの生活面から切り込んだのに対し、こんどは子どもたちが将来に希望を持っていないという心の面、子どもを含めた社会全体の問題として、とくに欧米諸国との対比でよりグローバルな視点からとらえていた。
6月4日(日曜日)午後9時放送された『nhkスペシャル 私たちのこれから』という番組です。
画面にくぎ付けになった。
スタジオに集まった有名無名の大勢の方たちの意見、思いを司会者の三宅アナウンサーがじょうずに聞き、この手の番組のむずかしさがありながらも気もちよく進められた。
さまざまな論点が出され、それぞれがほんとうに興味深かった。
が、それらは番組HPにゆずり、私のいちばん強く感じたことだけを書きたい。
ふたつある。
①子ども、若い人が自分の将来に希望が持てないでいる。
ひどい場合は、若くしてすでに年寄りの口から出そうな言葉を言っている。
未来を絶望視している。
②人どうしが、お互いがお互いをわかろうとしない。
「自分は自分、他人は他人」と割り切っている。
現代日本は基本的にはそういう孤立した社会構造になっている。
ひとり一人、ごく小さな内輪集団、仲間では共感しあうことがあっても、それが大きくなるとむずかしい。
そんな①と②だけれど、根はいっしょではなかろうか。
根?
流行りの言葉を使えば国民の「分断」だ。
昔、学校の社会・歴史で習ったとおり、支配者の民衆管理の方法はこうだった。
「団結・連帯できないよう、力を合わせられないよう分けよ! 分けてから支配せよ」
分断、いちばん!
①は世代間の分断。つまりは時間の分断。
子ども・若者に将来を不安にさせているモノのほんとうの正体を隠し、若者と高齢者はあたかも敵対関係にあるかのように描きだす。
お互いが敵のように感じさせる
安倍さん、これがホントの「印象操作」というものです。
「年金を支えているのは若者だ。若者は将来の年金さえあたるかどうかわからないというのに…高齢者は…」
そもそも、高齢者の年金を減らせば子ども・若者の将来は安泰になるのでしょうか?
私は旅好きでよく行きますが、少ない年金でも(ほかの生活費を削らざるをえませんが)行けます。行ったときは行きたくても行けない方には悪くて、「すみません」と言いたくなりますが。
②は社会の分断。つまりは空間の分断。
「エッ、『子どもの6人に1人が貧困?』ウッソー!」
そう感じる国民が多くいるという事実。
私も実感としてはわからない。
わが子がまだ学校に行っておれば別でしょうか。
現状は
地域、昔あったような共同体とのつながりが極端に減ったので、ますます「隣は何をする人ぞ?」になり、ますます「ほっといてー」となった。
いくら貧乏な生活していても、生活をしていくために、ケータイ・スマホは高価でも 欠かせない。
だけど、ケータイ・スマホを持っているなら貧乏じゃないという言う人がいる。
プライバシー保護社会になったので(そのくせ、監視カメラやGPS、国民総背番号で国民ひとり一人を管理)、あまり他の人の生活に立ちいってはいけないと思うようになってきた。
番組の終りのほうでも言っていたけれど、これを打ち破るのは、最終的にはひとり一人の想像力、個人の想像力。
いまの自分はこうだけど、たとえばAさんの立場になればどうだろう?