カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.7.13「随所に主と作れば…」 

                                                  カメキチの目

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  禅語

    隋処に主と作(な)れば 立処皆真なり

       (ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)

 

 

「隋処に主となる」とは、どこでも主体的ということ。

「主体的」とは、「自分が…自分が…」と目だとうすることではありません。

 

 主体的に生きれば、「立処皆真」なり。つまり、あなたが歩もうとする道、歩んだ道は、みんな「真実」なのだよ、ということか。

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 言い換えれば、あらゆる場・時にあっても自分を忘れず見失わず、ということは自分の頭でちゃんと考え、自分の人生の主人公は「自分自身」であろうとすれば、あろうと努力する限り、そんな自分の姿というのは「真実」だということ。

出世を人生の目標にするのはいいとして、そのために上司の顔色をうかがう、長いものに巻かれる、「ソンタク」する処世術も、それを自分で選んでいるので「主体的」なんだろうか?「立処皆真」だろうか? 

考えていたらわからなくなってきた…

 

 

 ところで、

「主体的」というけれど、「自分」「私」という主体はまわりの人々、社会から孤立し、浮いた抽象的な存在ではありえない。

  世間と隔絶した無菌室で生きているわけではない。

 私は誕生したときから、この世の中・社会に受けいれられて育ってきた。

 生まれてしばらくの間は人の(たいていは親)世話を受けた。小さく、幼かったので自力では生きてゆけず、まわりに順応するしかなかった。

 そのうち大きくなり、「大人」といわれるようになる。

 大人へと成長する前には「反抗」「批判(しばしば「非難」)」を覚えた。

 しかし、世の中・社会に「受けいれられる」ためには、自分としてはこう思い、考え、判断するけれど、世のおおかたはああ思い、考え、判断するらしいと、多数(「ふつう」とか「常識」とか)に合わせ、さまざまな妥協もしながら生きる。

私は妥協して生きてきました(でも、力ある者にソンタクした覚えはない。恥ずかしいことはしても…)。

「妥協」というとネガティブな感じなので「折り合いをつけてきた」といい換えようっと。それを「ソンタク」とはいわないでしょう。

「常識」とか、世の中・社会から無意識の影響を受けていること。

 

 隋処に主となる生き方するために、たまにはひとり

静かにならなければ。

 ひとり静かにこもっても気づかないかもしれないが、

世の喧噪から離れてみることは必要だと思う。

隋処に主と作(な)るために、スマホを忘れることもいいですね。

 

 

                 ちりとてちん

 

 

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