カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.8.3  つれづれの記④

                                                  カメキチの目

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 【続き】

 

[小さな小さな繁華街]

 

「なんとか銀座」までは7㎞。

ひらけた感じがする。小さな盆地という地形。

そこが「故郷」の中心地。実家がある集落みたいに山が陰となっていないので明るい。

役場(バカ《と私は当時もいまも思っている》な平成の市町村大合併によりいまは「市役所」)や商店、病院(医院)、警察署、消防署、電電公社(いまのNTTの前身。まだAUもソフト…もなかった)どが集中していた。

実家の前の川は「小川」。瀬がほとんどなのに、ここではいくつかの支流があつまり、流れは太くなっているので、あちこちに淵もみえ、そこだけ川底は見えない。

たかが7㎞とはいえ、これだけ離れるだけで「地方」は風景がさま変わりする。

 

・バスセンター

ここは国道ぞいの街。だから、街の中心部には「小さな小さな繁華街」とともに「バスセンター」があった。

街は迷路のような小路が走っており、国道の広い道も通っていた。その国道は曲がっているのでいまは旧道で、新しい国道、バイパスができた。いまではバスはそっちの、ただのバス停になった停留所にとまる(人口が減り、交通手段も農業用の軽トラを含め自家用車が一般的になったので、かつての「バスセンター」は建物もろとも消えた)。

ここをネットの結び目にして、私の「半日村」のような集落をふくめてあっちこっちに行くバス路線があった。

また、隣の県の主要地域まで伸びた重要路線の中継地でもあった。

当時はバスにも「特急」「急行」「準急」があり、ここはどこに向かう便も必ず停車し、10分くらい休んだ。もちろん、トイレ休憩だ。

まだ水洗というのはなかった。トイレットペーパーもなかったにちがいない(東京ではあったかもしれないな)。臭いとたたかい、新聞紙を破ってクシャクシャにし、拭いた。

男の立ちションは、当時は子どもだったのでまったく気にならなかったが、一列に並んで飛ばす(垂らす)方式。小便の着地先はセメントで固められているので、ときにはハネ返りがあり、まいった。それに、こっちだってアンモニアの臭いがあり、「大」に負けてはいなかった。

やっぱり都会ではすでに「水洗」はあったんだろか?水洗があれば新聞紙はダメであろうしトイレットペーパーはあったということになる。

まさか、いまのような洋式はなかったにちがいない(まあ、どっちでもいい)。

 

 ・商店①

店といえば、私の「半日村」には一軒の小さな雑貨屋さんがあっただけだ。いま思うと半端な狭さではなかった。

おとなが土間に立てば、5、6歩で店内のすべての商品に手が届いたのではなかろうか。

魚は、2㎞はなれた魚屋さんが自転車(バイク?)で「きょうはAがはいった」「Aを食ったら」と、Aがその晩のオカズになるようすすめた。魚屋さんがきた日の晩はおすすめの魚に決まったようなものだった。

よほどよく魚を食べたのだろう。大きくなって、「お前、骨をはずすのうまいな」「骨だけのこし全部きれいに食うなあ」と言われ、ほめられたのか、貧乏な生活を揶揄されたのか、複雑な気もちをよく味わった。

たまには肉があったのか?(牛や豚を食べたのはほとんど思いだせない)。

育ちざかりの中学時代、安かったにちがいない干し肉(いまでいう「何々ジャーキー」の先祖か)を学校から帰って腹が減っているのでよくつまんだ(盗み食い)。

近所に、それが本職ではなかったと思うけれど、自分で鶏をしめ、ホルモンごと持ってきてくださるオジサンがいた。隣の別のオジサンは農業だが、冬は猟師になり、仲間としとめたイノシシの肉をくださった。

中学校を卒業してから寮生活していたのこと。茶といえば、祖母がムシロにひろげて干している茶葉しか知らなかった私は、友が家から送られたらしい「紅茶」(コーヒーは知っていた)をご馳走になり、番茶いがいのお茶を初めて見た(セイロン《現スリランカ》やインドのアッサムは教科書で知ってはいたが)。その級友は都会からやって来ていた。

ついでにワカメ。

あの、海のワカメである。これは商店ではなく、隣の県から絣もんぺ姿の行商のオバサンが売りにこられた。

どのようにして来られたのか、子どもだった私は知らない。ただ、板状のワカメがとてもうまかったことと、こっちもおやつ代わりにバリバリ食べた思いでは忘れられない。

これもバリバリ食えたので安かったのだろう。

・商店②

「小さな小さな繁華街」の商店は、私の集落のただ一軒の雑貨屋さんが半端でない狭さであってもタマゴ、ソーセージ、マヨネーズ、醤油、ソース、駄菓子…などから線香、ローソク、鎌、鍬、ノート、鉛筆まで扱うのとはまったく違っていた。

いまは「コンビニ」というのがありますが、考えればこれは昔の「雑貨屋」みたいなものですね。

専門店なのである。

呉服店洋服店、肉屋、文具店、菓子屋、本屋、電気屋、散髪屋、美容院…。

そのうち、スーパーマーケットに発展していく食料品店もでてきた。

それにパチンコ屋(たまに父について行ったはずだが覚えていない)、映画館。

映画館には中学生にならなければ行けなかった。

7㎞向こうの映画館に行かなくても、私の集落では、じきに壊れそうな小屋みたいな「集会所」(寄りあい場)でなにかの端切れのような白い垂れ幕をスクリーンにして、片岡千恵蔵など往年の名スターによる時代劇が上映され、数少ない娯楽となっていた。ときには『にあんちゃん』という子どもが主人公のものもあり、涙がポロポロ…。18か19になって、原作(実話)も読んだ。たぶん、こういうことが世の中、社会を見つめる目に大きな影響を与えたのだろう。

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一年に一度、「小さな小さな繁華街」のそこでは盛大(と感じた)な祭りが行われ、さまざまな露店が出て、「世にも不思議」とか「奇怪」を看板にした見世物小屋が立った。

「子ども」から「少年」に成長するにしたがい、見世物小屋の正体はわかってきた。

ともかく、たかが7㎞離れただけで、「街はスゴイ!」単純に、すなおに感心した。

子どもの私は純朴だった。

 

〈続く〉

 

                  ちりとてちん

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