カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.8.25 『動物のいのちを考える』2

                                                  カメキチの目

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きょうは7月末の記事の続きです。あっちこっちへとすみません

 第二章は、「いのちの『食べかた』を考える」。

 

 この部分の著者は新島典子さんという大学の先生。

動物看護学(ある大学にはこういう学部があるのです。すばらしい! 東大や京大もこんなのを設ければいいのに)を教えている。

 

私は、畜産のウシやブタ、ニワトリなどを「産業動物」と呼ぶとは知りませんでした。

・生まれたときから「食材」となるまで育てる(畜産業)。

・解体して食肉を製造、または搾乳しミルクやバター・チーズを作る(食肉産業や乳製品製造業)。

・運搬し(冷凍車などによる運送業)、販売する(肉屋さん・スーパーなど小売業)。

・あいだには市場など卸しもあり、関連して牛乳パックやプラ容器なども。

まさに一大産業です。しかも「食べる」だから、生きることにぜったい欠かせない。生きるといっても肉食しなくてもすみますが、ベジタリアンだって野菜のいのちを、魚や貝などのいのちをいただいています。

 

ところで、

「供給」は「需要」あってこそのことですが、「需要」(すなわち今の場合は「うまい肉が食べたい」ですが)は待っていてはダメです。資本主義のこの社会では勝つには(他に先んじるには)「需要」を迅速に作らなければならない。絶えることのない研究・開発は企業の至上命令

つまり、より速く、より美味しい肉を消費者に届けること。

それには素材、ウシなどの「品種改良」は欠かせません。「品種改良」と言えばひと口ですみますが、人間にとっての「改良」。いくら古代からウシたちが畜産動物として飼育されていたからといって、複雑な気もちになります。 

(その研究。そのうちヒトの味覚にも広がりそう。より感度を高めるように。対象の産業動物の方だけでなく、主体の人間側も「改良」し「いかに美味しく食えるか」)

 

 この章の話もとても心に残った。

 ふたつに絞って。

 

 ①都市化社会における動物への態度の「ダブルスタンダード化」

「ペット」はペット、「ウシ、ブタ、ニワトリ…」は産業動物というふうに。二極化のますますの進行。

 ある動物はかわいがり、別の動物はおいしくいただく。

本書から引用

「現代の社会では、食糧は家電製品と同じように手軽に買うことが出来る。だが、食料は単なる物とは異なり、他の動物のいのちから作られた物である。ヒトは動物として生きる以上、ほかの生物のいのちを頂かなくては生きてゆけない。

一方で愛玩動物は愛護しながら、他方で産業動物の肉は食べている。このような動物たちに対する私たちの態度には矛盾があるが、…」

「このようなペットと産業動物の分断の背景には、一つには極端な社会の『都市化』があると思われる。都市化社会では分業化が進み、隣人の顔すらわからない『匿名化』が進むという特徴がある。そのような社会では、他者への興味や関心が薄れ、他者の仕事への想像力も薄れる。産業動物の世話や、それを肉に加工するプロセスに従事していない大多数の人々は、そうしたプロセスへの興味関心も想像力も持ちにくい。

また、都市生活では衛生観念が高まり、その結果として動物の特徴とされるにおいや汚れなどに神経質になる人が増え、においを放つ産業動物の飼育は都市部では敬遠されてゆく。…ますますの不可視化の進行…産業動物愛玩動物の取り扱われ方にはどんどん開きが出て、二極化の進行…」

  私は「ペット」の問題と「産業動物」の問題を結びつけて考えることはなかった。

ここの章には、食の文化史ということも書かれてありました。

土地や時代に応じた多様多彩な「食」の文化があります。日本でイヌが食べられていた時代もあったようです。

江戸時代、5代将軍徳川綱吉が発令した「生類憐みの令」。私が学校で習ったときは「お犬さま」といって、「人間よりイヌ優先か?綱吉は(志村研はまだいませんでしたが)バカ殿?」と生徒がそう感じてしまうような社会科の授業。まったく単純だった。しかし、高度経済成長期に入っていたといえども、まだ日本は貧しかったので、食は満たされてはいなかっただろう。

「食文化」というのはとっても大きな問題で、複雑です。その土地独特の背景があり、たとえばイスラム教ではブタは食べてはいけません(日本ではクジラの食文化がありますが、現代では捕鯨のことが「動物福祉」的な観点からの保護が問題になっている)。

ここを読んでいて、人間(自分もそのひとり)はなんと自分に都合のいいようにモノゴトを考えることか、そんな意味のことを思わざるを得ませんでした。

 

 ②肉食への向きあい方

「肉食」とは、何かの動物の肉を食べることである。ほかの動物のいのちをいただくことだ。

 

    現代の日本社会は、(なんでもそうですが)たとえば人の死も病院が「受けもってくれ」、一生の最後が遠ざけられたり、隠されたりする。

 親の苦しんでいるところ、とり乱しているところを見ないですむ。自分のそれを見せなくてもすむ。 

 

 ウシやブタ、ニワトリなどが、羽根をちぎられ、皮をむかれ、解体され、適当な分量に切りきざまれるところは見ないですむ。

 プラ容器が用意され、パックされる。効率よく迅速に、つまり合理的に行われる。

 最後は肉屋さん、スーパーに並ぶ。

 並んだ肉は、清潔な「商品」。

 私たちは「消費者」として購入し、おいしくいただき、ウシ、ブタ、ニワトリたちのいのちを自分のいのちにかえる。

新島さんは、「匿名化」という言葉をこの章のキーワードのように位置づけておられます。

「匿名」が良いとか悪いの問題ではありません。社会の「都市化」にともないそれは避けられない現象なのでしょう。

「匿名」といえばネットの世界。ブログ自体も匿名が可能。だからといって、好きほうだい、正体を明かさなくてすむからしたいほうだいであってはいけない。前提に、「他者への信頼」「責任」がなくてはいけないと思います(オマエ呼ばわり、卑劣な言いぐさ…)。

「どうせ、最後は人間の胃袋におさまるのだ」といって、「わからない」からといって、安いことを消費者はいちばん望んでいると劣悪な環境のなかで育て(そのほうがコストがかからない)、遺伝子操作も平気で行われている。消費者には見えない。

 

横道にそれました。それたついでにもう一言。

いたるところで信じられないような死傷事故が起きています。バス会社の無謀な運行計画で運転さんが極度の疲労に追いやられ、事故を起こし大勢の人が亡くなる。

トンネルの天井が落下し、そのとき走っていた車が事故に遭う。きちんとした安全点検がやれていれば死なないですんだ。

街の歩道を歩いていただけで、工事中の建築資材が落ちてくる。

挙げればキリがありません。

私たちのいっさい知らされないところで、安全の手抜き、偽装工事が行われている。消費者には見えない。

 

2005年に「食育基本法」が制定され、単に食べるという抽象的な営みだけでなく、他の生き物のいのちをいただくということの上に人間のいのちが成りたっていることを感じ、理解することが目的のようだ。

 もちろん、自分の口に入るまで、どれほど多くの人たちの労力と思いが関わっているかということも。

「食育」へのさまざまな取り組みが学校や、子どもたちの施設で行われている。

 

 このなかで著者は、具体的な、ある小学校での取り組みを紹介しており、その話に私はグッときた。

 その取り組みとは、クラスみんなでブタを飼い、卒業するときにそのブタを食べるという少し息の長いもの。

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 ブタには名前もつけた。みんなで愛情をかけ、手塩にかけて育てた。

 ときはたち、卒業ちかくになり、食べることになった。

 ところが、とても解体して食べるということはできなくなっていた。

 

本書からの引用

「食肉代替品の生産実用化が難しい現状では、人間が肉食文化を捨てることはおそらく不可能に近いだろう。…感謝して肉を食べること、そして、いのちの犠牲を無駄にしないために、食材を無駄にしないこと、動物福祉に配慮して作られた肉や魚を選ぶなど、いろいろな向き合い方がありうるだろう」

 

             

                  ちりとてちん

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