カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.11.30 『秘境中国…』

                                                  カメキチの目

f:id:kame710:20171029114701j:plain

 

 

 録っておいたNHKテレビ『秘境中国 謎の民 天頂に生きる』をみた。

 

 広大な中国の奥地に、富士山よりちょっと低い標高に「大涼山」はある。

3000余mの頂上付近は広大な平原で、人々が生活している。

荒涼とした草の平原。ですが、宮崎駿さんの有名なアニメ『天空の城』を想いました。

 そこで羊の牧畜をしたり、冷涼な痩せた土地でも栽培可能な蕎麦をつくって生活しているチベット少数民族、イ族の人々の暮らしをえがいたすばらしい番組だった。

イ族の祖先は、世界四大文明の一つ「黄河文明」のころ、南の長江沿いに「長江文明」があったされ(現在も調査・研究、遺跡の発掘中だとのこと)、その担い手だったとの有力な説もあります。

(番組は具体的には、イ族のうち「天頂に」暮らす「四季吉(しききち)」村の人々を映します。詳しいことはネットの番組情報をみてください)

                      f:id:kame710:20171124202035g:plain

                     

 

【感想】

① 人間は、裸でひとりで生きてゆけないの。それをとっても強く感じた。

 みんなで力を合わせ、壮大な自然に立ち向かってゆく。

 それでも人間だけの力ではどうにもできぬ物事・災厄が起こり、人びとはそれらを畏れ敬い、「祈り」「占う」ことしかできない。

いくら技術が進歩、発展しても、人間の力で「偶然」(結果的には「運命」といわれるもの)を乗りこえられるとは私は思えません。

そもそもオギャアーと生まれた赤ん坊の「私」がどこそこの土地のだれだれの親のもと、どんな身体・性質・能力などを選択できるわけないと思います。

「信仰」や「賭け」は、人が生きる限りなくならないものではないでしょうか。

 この手の番組をみて私はいつも問わざるをえない。

 人間にとって生きることとは?

「幸せ」とは?

 

 番組の中で次のような話があった。

 大涼山のふもとの町で、四季吉村の村長さんの息子が大涼山のきびしい自然で育った羊の焼き肉店(といっても露店)をやっている。大好評。注文と「うまい!」「サイコー!」との賞賛があとを絶たない。

 で、息子は父でもある村長さんに、村のみんなの働き口になるし、村全体が裕福になれるからと、四季吉村に羊の肉工場をつくることを情熱をこめて提案し、説得した。

 が、お父さんは息子の気もちはよくわかるけれど答えはNO。

 村の生活は物質的にはとても貧しいが、みんながひとつの家族のように助けあって暮らしている。これまでそうやって生きてきた。助け合ったからこそ生きてこられた。これからもそうやっていきたい。

食肉工場をつくれば村が豊かになるかもしれない。

しかし、「おカネ」「欲」に目がくらむ者が出てくるのは社会の必定。

四季吉村が物質的に豊かになっても、おカネでは買えない人間としていちばんだいじなものが失われていく。

 ぜったい、これを失ってはならない。それが、自分たち自身の存在を含めた自然、神、祖先にこたえる道。

 

② とはいうものの、日本でも「秘境」といわれた土地が次から次へと「進歩」をお題目に開発され、失われていったように、「天上」のここだっていつまで「秘境」でおられるのだろうか。

「秘境」でなくとも、村人に「互助の心」がいつまで生き続けるだろうか。

 おかしかったことがある。(「変」ではなく「可笑しい」ほう)。四季吉村の村長さんの息子だけでなく、モノに乏しい生活をふつうに送っている一家のある父親も、スマホの画面をのぞいていたことである。

ドラちゃんが「どこでもドア」でとつぜん四季吉村に現れ、現地の人たちに「べんりだからつかってごらん!」と気前よくあげたのでしょうか。

(そのうち「ドローン」が飛ぶのではないだろか。そういえばこの映像だってドローンにカメラを積んで写した気がした)

 

③ テレビで、似たような世界各地の「秘境」と呼ばれているようなところでも、現地の人びとが器用にスマホを操っているのをみたことがある。

 日本の私はスマホを持っていない。

だけど、携帯電話は持っています。

 私の住んでいる街も日本各地のおおかたの場所のように、スマホに詰めこまれているさまざまな機能を代替してくれるものが身のまわりにたくさんある。

スマホがあれば便利・快適だろうけれど)なくてもすんでいる。

 でも、ITの力でいろいろなことができるスマホは、大涼山のような辺鄙な場所こそ必要とされているのかもしれない。

 以前、さまざまな重い障害がある人にとってパソコンが、人間にとって基本的にたいせつな「意志伝達」の手段となっていることを知ったとき、「技術」のすばらしさを痛感した。

電タクが数字の計算に「革命」を果たしたように、翻訳機能を持った機器の開発・実用化(スマホのその機能が取り入れられるのは時間の問題ですね)が進めば、世界は日常の会話くらいなら言語の壁をのりこえて意思疎通を果たす「革命」を通じ、ほんとうに「地球はひとつ」になるかもしれない。ぜひそうなってほしいものです。

 

 

             

                 ちりとてちん

<