カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

20183.7 『存在論的ひきこもり論』①

                                                  カメキチの目

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存在」とか「人生」ということ。

初めて意識したのは思春期ころだった。あれから半世紀にもなるが、わからない。

 

 普遍的で抽象的であるがゆえに古今東西、「名言」などにいろいろいわれ表現されてきた。

 こういうことには感じやすいので、胸に響く言葉、文章に出あえば嬉しかった

感じるだけで、いくらすばらしいと思っても「実行」にうつすことがむずかしいものは感じる止まりであった。

実行するには「実行力」、「努力」が要る。ともに私には欠けていた。

実行しなければ意味がなくても、「実行力」の欠如を思い知ることになり自己嫌悪に陥ることがあっても、名言を知っただけでもよかった。

 

■「存在」ということ

 

「自分は自分」「他人(ひと)は他人」といってしまえば、そうなのだが、私は他のだれかさんであったかもしれない。

「存在」ということは、とても重い。

「私がいる」という事実はとても重いことなのだ。

 

 私はいまはこんな人間であるが、他のあり方、状態であったかもしれない。

 

 そんなふうに想像してみることは、生きていくなかでだいじなことだと思う。

 

2017.2.9「『普通』を考える図書館」、同6.21「発達障害」という記事を書きました。

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私が「発達障害」や「ひきこもり」ということについてもっと深く知りたい、わかりたいと思うのは、ひっきょう、初めに書いた「存在」とか「人生」を(自分なりに)納得できる何かをつかみたいからです。人間としてなんにも違わないのに今の社会で「生きにくい」と感じざるをえない人たちの生きざまから何かを感じさせていただきたいから。

 

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このあいだすばらしい本に出あった。

『つながりの作法』(アスペルガー症候群自閉症スペクトラム》の人と脳性まひの方の共著)と(私のブログ読者からずっと前に教えていただいていた)『存在論的ひきこもり論』という本です。

二つとも、読んでいて何度もなんども深くうなずきました。読んでほんとうによかったと思った。

専門的なむずかしいところはまったくなく、どちらも一般向けの啓もう書という感じ。

 

存在論的ひきこもり論』を主に、何回かにわけて書いてみます。ただし、自分の思うままに。

 

 書名は『「存在論的」…』。

 取っつきにくそうな書名である。

 なんで、著者の芹沢俊介さんは読者が敬遠してしまいそうな本の名前をつけたのか?

 

 このことの説明がいちばん初めに述べられている。

 読んで納得した。

存在論的」としか表現できないような、屋台骨、考え、思想が本の全部をつらぬいていた。

 それは、著者が「ひきこもり」という社会現象をとらえるにあたって、これを外面的な(つまり内面、心、精神の状態を抜きにして。もしくは軽視した)「社会的ひきこもり」ととらえるみかたが一般的に強いなかで、これを否定的なものだとして退けようとしてのことなのだ。

 すなわち、「社会的」に対して「存在論的」としてしか名づけようのないことなのだ。

この本を読んで、「ひきこもり」独自の問題はそれはそれとして、「存在論的」という本質的なみかたは広く「マジョリティ」といわれる多数派に対する「マイノリティ」といわれる少数派の人々、少数意見なども含めていいと私は思いました(普遍的に、どんな人、誰にでも当てはまると思った)。

 

存在論的」とは、外に見えた姿、社会的な在りようを問題にするのではなく、深く本人、当事者の立場に立ち、内面の奥底からみようということを著者はいっているのだと思いました。

 

 

                   ちりとてちん

 

 

 

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