カメキチの目
旅は、いつ、どこを訪ねてもロマンにあふれている。
それを「ロマン」とするかどうかはこっちの手腕にかかっている。
計画段階であんまり調べすぎると、すでにそこを訪ねた気もちになるし、逆になにも調べないと「宝物」を見のがすことになります。やっぱりホドホドがたいせつということでしょうか。
(しかし、感受性は磨きたいです)
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この前、「三保の松原」、「登呂遺跡」へ旅をした。
■ 昔から 「三保の松原」はよく聞いていた。
そこから駿河湾をへだてて浮かびあがる富士山の絵をなんども見たことがあった。
富士山は、新幹線の窓ごしをはじめ、山梨側からも山ごしに見あげたことがあるけれど、海と松ごしはなかった。
「東海道五十三次」の広重の浮世絵に出てくる昔の旅人も眺めたであろう景色を観たかった。
■ ここまでは予想どおりだった。
海と松林ごしの富士山。天気に恵まれ、背景の青い空が富士を浮かびあがらせてくれた。
見えませんが、松林の下に海がある。
こんどの旅の目的は三保の松原だったけれど、計画の段階で静岡市を調べていたら、なんと、あの「登呂遺跡」が駅からバスで15分くらいだと知った。
「登呂遺跡資料館」で埴輪のあどけない無心の顔を見ていたら、中学生のころ観た『大魔神』という、ウルトラマンの時代劇版のような特撮映画を思い出した(『大魔神』はウルトラマンのような宇宙からの「正義の味方」じゃなくて、登呂遺跡のあった弥生時代でもないけれど、江戸か室町くらいの正義の味方)。
物語は、
貧しい村の父ちゃんたち大人が悪代官に連れさられ、奥深い山のまた向こうの鉱山で働かされているのを幼い三人の少年が助けに行く。
途中の峠に、埴輪姿の「お山の神さま」が祀られてある。通りかかった少年たちが
「神さまぁ、どうか父ちゃんたちをお助けください」と掌を合わせると…
なんと、埴輪がそろりと手をあげ、右から左(逆だったかも)に顔を撫でると穏やかな表情が一変。無垢の少年埴輪が大きな口をへの字に結んだ怖ろしい大人の魔人に変身。
魔人は「大魔神」。顔が変わっただけでなく、身体も見あげなければならないほどでかい。
その大魔神がアソウ、いや悪代官をやっつけ、父ちゃんたち村人を救う。
(そういえば、三保の松原では名物「アベ川餅」を食った)
私のなかでは中学生のころ、初めて知ってから忘れることは決してなかった登呂遺跡。半世紀も眠っていたそれが突如、目ざめた感じであった。
『大魔神』みたいに。
私:「神さま、どうか『公文書改ざん』が起こらない国にしてください」
神さま:「政治は人間の問題じゃ。人々の力で糺さないでどうする…」
「ワシに頼るな!」
思えばきょ年の「野尻湖のナウマンゾウ」に続いてことしは「弥生人」。
「縄文人」は大好きな東北で、青森の三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡、秋田の大湯環状列石を障害者になる前に見た。
旅の名人、芭蕉の言うような、
「月日は百代の過客(はくたいのかかく)」「行きかふ年もまた旅人」、
「日々旅にして」「旅を栖(すみか)とす」
そんな生き方をしたい。