カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.6.12 漁夫の生涯竹一竿

                                                  カメキチの目

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 禅語

 

    漁 夫 の 生 涯 竹 一 竿

        ぎょふの しょうがい たけ いっかん

 

この言葉の前に次の言葉があります。

 「山僧が活計茶三畝(さんそうがかっけいちゃさんぽ)

 

山寺の坊さんが食ってゆくのには三畝の茶畑もあれば十分。

これより広ければ、土を耕やし、苗を植え、水をやるのがたいへんだ。

(けっきょく、多く所有したら、その使用や維持・管理にたくさんのエネルギーを使わなければならない)

 

食っていくには限りがある。人の何倍も胃袋が大きいわけではあるまいし(ガリバーなら別ですが)。

 

 漁師だって、竹ざお一つさえあれば死ぬまで食ってゆける。

 ほかに、何がいる!

 

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前の「春在枝頭己十分」ということも「少欲知足」に通じました。

生きてゆくのに必要なものは欠かせないけれど、余分なものは要らない。

でも、必要とはいえないが、あって悪くはない、あれば「便利・快適」なモノがいっぱい世の中にはあふれています(目を眩まされることがいっぱい。私はよく眩み、「物欲人間」だった)。

 

(人によりいろいろですが)人生にだいじなものとあまりそうではないものを、いまいちど見定めよう、見つめなおそうということが、「ミニマリスト」の心髄なんでしょう(あまり意識したことはないが、私もミニマリストになりたい)

 

 「引く。減らす。捨て去る…」。

 思えば、これは障害者になったことだけではなく、老いの身にもピッタリだ。

もっとも障害や老いというのは「必要なこと」までも喪失させますが、なくすることによって、今までその恩恵にあずかっていたことのありがたみが感じられます。見えなかったものが見えてくる。

そう考えると、老いるのも悪くはありません(苦笑)。

 

前に、『ブラタモリ』という番組で銀閣寺をやっていました。

銀閣寺は「応仁の乱」で未曾有の死をみた足利義政が、そんな俗世間の騒動から隔絶した隠居生活をするために建てたものが始まりで、後に禅寺に変わりました(いまでは「静寂」、「わび さび」の日本的な美の一つとされている)。

番組の中でのこと↓

日本で初めての「四畳半」といわれる部屋(そこは善政がいちばん愛した)に座したタモリさん。障子窓を少し開ける。と、なんということでしょう!

山を借景に池をめぐらした庭園は、障子を開けた長四角の分だけが「絵」となって切り取られ、山水画の掛け軸が垂れ下がっているよう

己が四畳半という小さな世界に座し、そこに属する障子というさらに小さな造作を「少し開ける」という仕ぐさを通し、外界の無限につながる。すごい発想の日本の伝統美。そのいったんに、こっちも触れさせてもらった気分だった。

 

                   ちりとてちん

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