カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.7.10 自然災害そして犯罪

                                                  カメキチの目

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こんどの雨はほんとうに酷かった。

 

私のところは土砂崩れ、洪水の被害こそなかったけれど(バケツをひっくり返したような豪雨だったらわからなかった)。だいたいは弱い降りでした。しかし連続して4、5日間ふりました。こういう経験は人生で初めてです。

(広島の敬愛する読者さんが、周囲は「川か湖か」、いちめん水だらけの中にポッカリと浮いた家屋、建物の写真を載せ、「水が流れない」ことのどれだけたいへんなことかなどを知らせてくださいました。

「水が流れない」ということは、ポッカリ浮いて周囲から孤立するだけでなく、自分のウチの水を使えない《水を流せない》ことです。

いま雨がやんで、猛暑のなか、「普段の生活」「日常の毎日」を取り戻すために、流木を取りのぞき流れこんだ土砂を取りはらい、水に浸かっても乾かして使えるモノは使うために丹念に洗う《使えなくなったモノはたくさんの思い出があっても捨てる》。

なんか、想像するだけで狂いそうになる。

祈るしかない)

 

ひと月近く前には大きな地震があった。

高槻市で学校のプールのブロック塀が倒壊して、そばの道路を歩いていた(登校)9歳の女の子が亡くなったのは私も大きなショックを受けました。

さまざまな「偶然」が重なってその子は死ぬハメになったわけですが、あとからブロック塀の危険性が指摘されていたにかかわらず教育委員会行政は放っていたということがわかりました。

だから、地震が起きれば倒壊する「可能性」(「必然性」)はあったわけです。そういう意味では避けられた死でもあります。

あまりに理不尽な死

「人生に長短はない」と生意気なことをよく言う私ですが、9歳という年齢のなんと短いことだろう…。

 

(こんどの大雨被害でも、松山市沖の瀬戸内海の「怒和《ぬわ》島」という過疎の島でお母さんと二人の女の子《姉妹》が亡くなりました。子どもは「島のアイドル」だったと泣きながら地域の方が話しておられました。命の尊さは同じとはわかっていても、子どもや若い人が死んだと聞くと特に気になってしまう)

 

「人生に長い短いはない」といいながら、片一方では

「この歳まで生きてみないとわからないことがいっぱいある」とも思っている。

文脈は違うけれど、この二つは矛盾している。

 しかし、「矛盾があるのが人生だ」と自分に都合よくまとめるのが私は得意だ。

 そうやって相反した理屈であっても折り合いをつける。 

この手の「ご都合主義」「いいかげん」…がわが身にはけっこう身についていると思っている(でも、国民の前でウソ・偽りを押しとおすアンタには完敗)。

結果が、望まぬもの(世間的には)失敗と思われるものであっても、痩せ我慢が全然ないとはいえないが、「ヨシ!」としてこれまで生きてきた気がする。

 (私のような「ご都合主義」「いいかげん」…も、この女の子はできない。永遠に9歳のまま…)

 

 地震や大雨、自然災害のことを思っていたら、最近たて続けに起きた殺人事件のことが重なってきた。

二つ書きます。

 

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① 栗を剥くように、地道に、あたり前に生きていても、これからも生きたい・生き続けたいと願っていても、災害の中身は違えど、ある日、突然死んでしまうことがある。

「生きている」ということはかない。奇跡のようなもの。偶然のたまもの。

(生きてるからには死なねばならない)

みんな(誰)もが「死ぬ」のは必然だから、偶然「生きている」私の生はただそれだけで尊い

 

 一方では、やむをえない(「やむをえない」のではなく、きちんとすれば防げたはずのものの何と多いことか)自然の災害ではなく、人間の起こす事件で殺される人がいる。

 殺す人がいる。

こっちは人間のすることですから、天変地異とは違い、防げるはずです。

 

 このところ、「ムシャクシャしていた」「誰でもよかった」「死刑にしてほしい」…など、自暴自棄になったあげくの暴発による殺人事件が続き、これにも衝撃を受けた。

 加害者はすぐさま警察に取りおさえられると覚悟した(少なくとも「わかった」)うえでの殺人事件を犯している。

 自分なんかどうなってもいいと、自らの人生を放棄している。 

「自分にヤケを起こしてはならない。自棄になり、他の人を巻きこむのはもっといけない」。そんなことを冷静なときはわかっていても、事件のときはわからないのだろう。

 

②「ムダな人生」という言葉があり、「つまらない人生」という言いかたもよくされる。

 が、「ムダ」とか「つまらない」人生って、ぜったいない(と私は信じている)

 

 若い人から「ムダ」とか「つまらない」を聞くと、

「青年よ、生きてきた道がまだ短かすぎる」とちょっとエラぶって説教したくなる。

 

 老いた現在、自分自身の実感から「ムダ」や「つまらない」ことなんて一つもないと断言する。 

 

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 老いて初めて、

子どものころや若かった時代をふり返えられる。

そして、その時どきの自分を、自分が「主人公」の人生舞台(まだ「演じ」終えてはいませんが)での「位置づけ」みたいなものができるようになる。

 子どものころ、若かった時代に体験したモノゴト(すべての経験)の「意味づけ」みたいなものができ、(またすでにできあがっていた)それが変更されることがある。

 新たな発見が加わえられたり、別な角度・視点からのみかたが試されたりする。

もちろん、まったく変わらなかったものもある。

「変わった」「変わらなかった」ということがわかるためには、ある適当な長さを生きなければならない。

 

そう思うと、若い人(ましてや子どもが)が死んだという話・ニュースはやり切れない。

彼・彼女が生きていたら、(少なくとも)私くらい長生きしていたら…と想うと。

9歳はあまりに短い。 

 

さまざまな悲惨な事件が後を絶ちません。

「新幹線」「富山」「ブロガー」などの殺人事件にやり切れない思いをしていたら、次の6月26日のデジタル朝日・WEBRONZAに稲葉剛という立教大学の先生が書いていた記事が目に入りました。

【引用】 

是枝裕和監督の新作『万引き家族』が大きな反響を呼んでいる。「犯罪でしかつながれなかった家族」を描いたこの作品は、5月19日に閉幕した第71回カンヌ映画祭で最高賞のパルムドールに輝いた。…

逮捕という形でしか可視化されなかった人たち

 生活困窮者支援の現場で私たちが出会う人々は、例外なく、“Invisible”な状態に置かれてしまっている人々だ。しかし、最も“Invisible”な状況にあるのは、『万引き家族』の登場人物たちのように民間の支援団体にも、福祉行政にもつながれていない人たちだと私は考えている。

 そうした人たちのごく一部から、結果的に法を犯す行為に関わってしまい、新聞の社会面の記事に氏名が出る人たちが一定数、現れる。ある意味、逮捕という形でしか、公的機関につながれず、可視化されなかった人たちである。

 私たち生活困窮者支援の関係者は、新聞の社会面を開くことで初めて、その人の存在を知ることになる。そして、「たられば」の仮定の話であると自覚しつつも、「この人がもっと早い段階で支援につながっていれば」と嘆息するのだ。

 『万引き家族』をめぐるニュースが日本国内を駆け回った時期にも、新聞の社会面では貧困や社会的孤立が引き金になったのではないかと思われる犯罪に関するニュースがいくつも報道されていた。 

住居喪失と社会的孤立が重なった2つの事件

 そんな“Invisible People”が引き起こしてしまった事件から、特に住居喪失と社会的孤立が折り重なったのではないかと思われる2つの事件に着目してみたい。

 今年5月17日夜、名古屋市内のインターネットカフェの店内で利用客の会社員がナイフで刺殺され、22歳の無職の男性が逮捕された。

 容疑者と亡くなった男性の間に面識はなく、報道によると容疑者は「何かむかつくことがあったら、誰でもいいので刺してやろうと思っていた。店内でもささいな物音でイライラし、限界に達した」等と供述し、接見した弁護士に「職に就けずにいらだっていた」と話したという。容疑者は1年以上前に福島県の実家を出て、各地のネットカフェを泊まり歩いていたようだ。

 名古屋地検は容疑者の精神状態に問題があった可能性を考慮し、6月1日から約3カ月間、鑑定留置を行うことを決定した。その結果が出る前に断定的なことは言えないが、事件を起こす前に、適切な福祉的支援や医療的なケアにつながっていれば、違う結果になったのではないかと思わざるを得ない。

 6月2日には、新宿区歌舞伎町のコインロッカーに生後間もない女児の遺体を遺棄した容疑で、25歳の女性が逮捕された。報道によると、容疑者は「漫画喫茶の個室で産んだが、赤ちゃんが声を上げたので周囲にばれると思って殺した。数日後に捨てた」という趣旨の供述をしており、その後、殺人容疑でも再逮捕された。 

 この女性がどのような経緯を経て、漫画喫茶で暮らすようになったのか。子どもの父親や彼女自身の親はどこにいるのか。なぜ誰にも助けを求められず、一人で出産をすることになったのか。現時点では何もわかっていない。ただ、彼女が貧困による住居喪失や社会的な孤立という問題を抱えていたことは間違いないと思われる。

 居場所のない若者たちの相談支援に取り組む一般社団法人Colabo代表の仁藤夢乃さんは、逮捕された女性について「彼女には頼れる人や安心して生活できる場所がなかったのではないか、たった一人でどれだけ不安だっただろうかと思いました。妊娠までも孤立困窮していたのかもしれませんし、妊娠後も誰にも相談できずに追い詰められていたのではないか」と述べている。

 そして、「彼女に気づいて、声をかけた人はいなかったのだろうか。私も含めた支援者や、誰かが早い段階で彼女に出会い、支援につながれていたら」とやるせない思いを語ってくれた。

誰ともつながれない人たち

 『万引き家族』は「犯罪でしかつながれなかった家族」を描いた物語だが、貧困状態にある人の中には家族を含めた誰ともつながれない人も少なくない。名古屋の事件の容疑者も、歌舞伎町の事件の容疑者も、自分の苦境を相談できる相手が誰もいなかったのではないかと推察される」

 

 

 

                  ちりとてちん

はてなさんから、Bブックマークの利用を禁止するとの連絡がきました。

☆はつけられるのですが、Bブックマークはダメで、コメントしたくてもできません。

(利用禁止の理由がまったくわからないので、はてなさんにきいているところです)

ゴメンなさい。

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