カメキチの目
きょうは禅語。
一 無 位 の 真 人
(いち む い の しん にん)
自分なりにあえて直訳すれば、人間はだれも一人ひとり真実の存在であり、
位(くらい)などないということでしょうか。
人間の「生」は、その人間を部分部分に切り離し、部分部分について何らかの「価値観」にもとづけば評価、価値づけできる、他人のその部分と比較することは可能でしょう。
でも、そもそも「部分部分に切り離す」なんてバラバラ事件のようなことが実際にできるのでしょうか(死体の解剖なら別ですが)。
人間の「生」は、全体としてしか存在しえません。
長短あって私。 清濁あって私。よくいわれることですが、神さまのような人間はいない。いたら神さまで、人間ではない。
(人間は、生まれたときから、生きるなかでも、どうにもならぬことがあります。
あとからふり返って「アレは『運命』だったのかなぁ…」とでも思って受けいれざるをえないようなことがいっぱいある)
現実生活のなかではいやがおうにも「無位」にいかず、比較・ランク付けされ、位置が与えられる。
いつからか、たぶんに冗談の要素があるんでしょうが「総選挙」という言葉が流行語のようになりました(私は嫌いです。嫌いでも、流行に疎くても聞こえる)。
世間ではそんなにランク付けが好まれるんでしょうか。
世の中は、社会は確実に「私」という個人を呑みこむ。
ツライなあ、
と感じたときには、深く息を吐いて吸おう。
自分の目で見、自分の耳で聴き、自分の鼻で嗅ぎ、自分の舌で味わい、自分の肌で触れてみる。
私は「一無位の真人」なのだ。だれもそうなのだ。みんないっしょなのだ。
ずっと前に流行した歌に「オンリーワン」という言葉がありました。それを知ってから自分の好きな言葉の一つとなった。
とかく「ナンバーワン」と比べられますが、よく考えれば「ナンバーワン」も「オンリーワン」のなかの一つですね。
と考えていたら、「一無位の真人」とは一種の人権宣言だと気づいた。
禅語はスゴイこと言ってます。