カメキチの目
(敬愛する読者、「recocaさん」も禅語が大好きでおられます。先日も「相逢不相識共語知名《あいおうてあいしらずともにかたりてなをしらず》」「一期一会」「喫茶去」を書かれていました。禅は「食べる」ことなど毎日の生活・日日の行いをとてもだいじにするということにも触れておられていました。で、きょうは)
行 住 坐 臥
ー ぎょう じゅう ざ が ―
朝起きたらていねいに顔を洗い、きちんと掃除をして、食べものをいただく。夜になれば床に臥して眠る。
そして、朝から晩までの間にはいろいろな用事があり、何度もなんども立ったり座ったり…
そんな日々の変わらぬ立ち居ふる舞い(その連続)が修行であり、そこに仏法があるのだから、いつもと同じ行いでもたまには自覚してやってみましょう、ということか。
■禅寺では庭を掃いたり雑巾がけをしている小僧さんがよく出てきます。
精進料理を作りの兄弟子や、冬の寒さに備えてのマキ割りに汗を流す僧も。
「托鉢」と同じように、日日の「行住坐臥」も仏教のだいじな修行なんですね。
(これなら「在家」、寺に入らなくてもできそう)
■私は生意気ざかりのころ、掃除がイヤで(口に出すと叱られるから)心のなかで「またどうせ汚れるのに…」とブツブツつぶやいたもの。
あとで考えたら、「食ってもどうせウンコする」と同じ論法だと気づきましたが、食事と掃除は別だと新たな「理屈」を持ちだしたものです。
いっけん合理的に思える理屈が「屁理屈」に過ぎないことがわかるにはそれなり世のなかで「汗かき、もまれる」必要がありました。
(古くさい「しきたり」の残っている全寮制の学校にいるとき、いっけん不合理にみえることでも《「押しつけ」に思えることでも》、それが「行住坐臥」的な行いならば、イヤイヤながらでもくり返して行っていると身につき、社会に出てから役に立つものだと、社会に出てからわかりました)
生きることは行住坐臥。
ということは、生きること、人生そのものが「修行」 なのだ。