カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.11.9 『キノコのおしえ』

                                                  カメキチの目

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「自然」を強く意識するようになったのはそれほど昔からではない。

学校では「地学」「生物」はなかったので習ったことはなかった。もっと小さいころは周りは自然ばかりで、どっぷりつかっていた

大人になると働かなければならなくなり、「仕事」「生活」が意識の中心となった。

所帯をもってからは、たまの家族旅行の行き先に海や山を選んだけれど、それは今のように「自然」を意識したものではなかった(「レジャー」に重きをおいたもので、子どもが喜んでくれるだろうと思ったから)。

 

老いて(仕事を辞めて)から土や生きものにひかれるようになった。

 

仏教など東洋的な思想の大きな特徴に円環(〇)、もとに還るというのがあります。

自分の来し方をふり返り、行くすえを想う。

風呂のとき鏡に身体を映す。しみじみながめる。この身体もさまざまな元素(無機物)、いろいろな有機物で構成されており、全体としての自分が生きているうちは役割を終えた古い部分が死に、新しい部分が生まれている。しかし、

やがては本体(全部)・自分自身が死ぬ。すべてが死滅(消滅)。

貧弱な身体にも感慨がわく。

 

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 キノコの本を読んだ。

図鑑ではありません。新書本です。

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(自分の描いたヘタな絵を見てふと気づいたのですが、「原子爆弾」が炸裂してできる雲を「キノコ雲」というけれど、キノコと人類の関係の象徴のようにみえてきました)

 

長年にわたってマツタケなどキノコを研究・調査されている大学の先生が著者。

本業のかたわら、講演などをとおして「マツタケの生える松林を守る」「地球環境を守る」と長い間(お歳は80を過ぎている)さまざまな啓蒙活動をおこなってきたが、あまりにも進展しない現状に少々いらだって書かれたような書物です(小川眞『キノコの教え』)。

強く感じたことだけ三つだけ書きます。

 

① これまで生物は「植物」と「動物」の二つだけに分類されると思っていたが、どうも怪しいらしい。

 

 現在のところ、キノコやカビ(菌類)は植物にふくまれ、植物の仲間にされていることが多いけれど、植物(独立栄養生物)のように「光合成」ができず、土や落ち葉、樹木のなかに潜りこんで菌糸をひろげ、樹木(植物)や虫(動物)の死骸などから栄養をとってひそやかに生きているので動物(従属栄養生物)の仲間のようなところがあるとのこと。

『牧野日本植物図鑑』では、キノコは蘚苔類(コケの仲間)と並んで隠花植物に分類されているそうです。

(先日、愛読しているセネシオさんがブログ記事で、ヨーロッパではシイタケ栽培などが盛んであり、それが単なる流行りの現象ではなく、これからの人類の生存には欠かせない「循環型経済」にキノコが大きな役割を果たしそうだとのことを述べておられました)                  

cenecio.hatenablog.com

 

 植物か動物かという分類はまだ決着がつかなくても、

動植物とキノコ・カビ(菌類)・細菌など微生物との、密接不可分の関係は確かだ。

 お互いが「生」を支え合っている、すなわち「共生」という関係。

下記引用は渡辺一夫・著『アセビは羊を中毒死させる』という別の本によります。

【引用】

細胞の中に残る太古からの共生

生物の体のなかには、さらに深い共生関係もある。たとえば植物が光合成を行っている葉緑体もそうだ。葉緑体は、植物細胞の中に存在する微小な小器官である。植物は、葉緑体光合成を行うので、葉緑体なしには生きていくことができない。

驚くことに、それほど重要な細胞小器官である葉緑体は、かつては別の生物(藻の一種)だったという。かつて植物の祖先が単細胞生物だった時代にはやはり単細胞の藻を食べたのだが、食べた藻が生きたまま体内に残ったものが葉緑体である。

われわれ人間の体の細胞にも、かつて別の生物だった小器官が存在する。人間を含めた動物や植物の細胞には、呼吸を担っているミトコンドリアという小器官があるが、これは、かつてわれわれの祖先が、呼吸が得意なバクテリアを生きたまま体内に取り込んだものだ。

 葉緑体ミトコンドリアは、細胞の内部で共生し、宿主の生命活動を支えている。二つの生物が細胞の中で一体化し、協調して生きているわけである。このような深い共生関係においては、どちらかが死ねば片方も死んでしまう。…しかもその関係は10億年以上も前から続いてきたという。…

 

② 生物は「共生」していてこそ生きていられる。生き残られる。

 なのに現在、キノコは明らかに減っている。

ここでいうキノコとはあくまで天然産です。スーパーで売られ、簡単に食べられる栽培キノコじゃありません(この秋はマツタケなどキノコの豊と騒がれていますが、そういう一時的な現象を著者は問題にしていない)。

本より【引用】

実際、マツタケ山のキノコを調べていた半世紀前に比べると、ものを腐らせる腐生菌は変わりないが、菌根菌の種類や量は明らかに減っている。…

なぜこれほど害虫が増えたのか。なぜ、虫に襲われるほど木が衰弱したのか。その背景には大気汚染や土壌汚染、温暖化が潜んでいるように思えるのだが、まだ確証がない。しかし、どう考えても、地球に起こっている異変をキノコが土の中から人間に伝えようとしているように思えてならない。…

 

 こういう自然環境の破壊がじょじょに、しかし確実に進んでいるあかしに著者は「佐渡隠岐」をあげる。

佐渡隠岐」がこんなところで登場するとは…

再び【引用】

雪と木の衰弱

海をわたってきた窒素酸化物や硫黄酸化物を含んだ大気は、雪になって日本海側の山に降り積もり、春のフェーン現象で一気に融ける。汚染物質は雪が溶融と凍結を繰り返すにつれて下に下がり、融雪時には元の濃度の7倍になる。PHは4以下まで下がり、酸性も強くなっている(この報告は1990年に出されている)。

汚染物質とキノコ

菌根菌は重金属やミネラルを選択吸収するという性質を持っており、そのため未知の汚染物質によって成長阻害が起こる可能性も高い。したがって、長年このような大気、土壌、水などの環境汚染が続くと、根が死んでキノコが消え、木が衰弱するという結果になってしまうと思われる。

佐渡隠岐

なぜ、佐渡のようなきれいなところでこれほど木が衰弱するのだろう。地元の人によると、佐渡は霧のかかる日が多く、冬には雪の積もることもあって、いつも西風が吹いているという。どちらも汚染物質と思えるほどの工場も発電所も道路もない。おそらく、大陸から運ばれてくる汚染物質が雪や雨、霧になって降り注ぐのだろう。

とくに両津港の近くではマツやナラ類はもちろん、スギやケヤキマダケもサクラもボロボロになっている。全体がひどく荒れた感じになり、ほとんどの樹木が衰弱している。オーバーだとお思いの方は、ぜひ夏の盛りに佐渡へ行って、自分の目で確かめてほしい。最近見た佐渡隠岐は、日本列島の汚染を表示するバロメーターではないかと言いたくなるほどの状態である。

 

③ ブータンでは国民の生活状態をGDPではなく、「幸福度」ではかるというファンタジーのような話があるが、

けっして空想、幻想ではない。現実なのだ。

著者はこの本の最後を、ブータンの「幸福度」で閉めくくられました。

(ちなみに、幸福度は「実現÷欲望」によってはかるとのこと。分子の「実現」はさまざまな条件で望みがかなわぬ場合が多いですが、分母の「欲望」は減らせそうです)

 

著者小川さんは次のように本の最後の最後で述べられていたのが、いつまでも心に残りました。

終わりの【引用】

見えない微小な世界の力の大きさを忘れてはならない。この世の生きとし生けるものに無駄な存在はない。自分の成り立ちをつぶさに見れば、それぞれが懸命に生きて、互いに支え合って暮らしていることがわかるはずである。

 

 

                  ちりとてちん

 

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