カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.11.20 図書館へ行く

                                                  カメキチの目

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  1週間か10日ごとには 図書館の本を借りている。

 こんなにタダで本を読ませてもらい(買うとたいへん)、読まない市民のみなさんには申しわけない。 

働いているときは図書館は頭になかった。読書そのものがあまりできなかった。

(精を出して働いた覚えはないけれど、遅い夕食を終え、風呂にはいって、やっとくつろいで新聞・読書のタイムイン。でも新聞の好きなところを拾い読みし、本を前にすればたまに10ページ、平均2,3ページもすると睡魔に襲われダウン)

読みたい本があるのはたまのことなので、(結果的に「ツンドク」に終わるのが多かったが)買った。

 

図書館のありがたみを感じたことは、働いているとき一度だけあった(そのときはまだインターネットはなかった)。

仕事上の調べものがあり、その本を借りても家ではすぐに眠くなるので、勤務終了後から閉館まで「閲覧」という形で10日くらい通いつめた。

(思えば、インターネットはほんとうに便利。今では携帯スマホ「文字」という情報の膨大なたまり場のような図書館の機能の一部を代理してくれます。簡単なことならわざわざ図書館に行かなくても調べられる。しかもその情報は「更新」という手続きで最新版に改められる)

 

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  図書館までは健康な人が歩けば20分以内なのだが、こっちはフラフラ歩きだから遅く、加えて散歩の要素が大きい歩きなので1時間ちかくかかる。

とちゅう二箇所、祠がある。高さ数十㎝くらいのお地蔵さんが一体か二体祀られているようだが、閉じられた扉の格子の目が隠しているのと中が暗いのとで見たことはない。

本体はよく見えなくとも、鎮座されているのは確かなので祠の前で帽子をぬぎ、合掌する(カミホトケに関したものに出あうたびに私は敬虔ふかくなるのだ)。

ずっと前に読んだ内田樹さんの本に、神社仏閣など、いわゆる「聖域」は数かぎりない人々の「祈り」がなされ、なされた場所だと想うと自分はそこを訪ねると自然に手が合わさるという意味のことが書かれており、なるほどなあと思った。

 

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 ところで、

 先日の図書館への道すがら、いつものように祠に合掌した。

すると、「ちゃんと神仏の力が効いておれば障害を負うこともなかったのに…」とジョークながらも「恨み節」のようなことをツレが言ったので、

私は「だけど…」と返した。                           

                             

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「死んでいた」かもしれない。「こうして歩けなかった」かもしれない。

つまり、「不幸中の幸い」だったわけだ。

続けて「半分しあわせ。」と、こっちもジョークで返した(こんなのは「ジョーク」ではないか)。

 もちろん「完熟しあわせ」なのだが、遠慮しての「半分」でもあった。

 

 前に『キノコの話』で書いたように、幸せは[実現÷欲望]なので、分母はなるべく小さいほうがいいのだ。そう、ちょっと「遠慮」するのがいいかな。

 

 

                           ちりとてちん

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