カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.5.17  福沢諭吉-(内田さん⑤)

           カメキチの目 

 

 

 国家や政治は、生まれてからずっとつきまとっているのに、(政治家などを目ざそうと思わない限り)たまの選挙の投票行動でくらいしか実感できない。

(他にもありました。

ニュースで国内の政治経済の話題を聞くとき。「ああ、自分は日本国民だった」

海外では《たとえば》トランプが「約束を破ったから悪い。中国製品の関税を《10%だった》25%に引き上げる」。聞いたときは、「日本に直接は関係ないけど、鎖国しているわけじゃないし、よそごとではない。まわりまわって影響するか」)

 

 ショックなできごとが、わが身に直接おきそうなら別だが、政治の話は「しょせん他人ごと」で終わる。

2、3日たてば忘れる。

 

 消費税は誰にも関係あるけれど、もうじきアップされそうでも、さして大反対とはならない。

(「大反対」ともなれば選挙に響くから、目の前の選挙に勝つことがたいせつなので、前の約束の「10%」引き上げが怪しくなってきた)

 創設時に10%というのなら完全に潰されたであろうが、「8%→10%なら許せるか」、いきなり10(3→5→8→10と、カエルに煮え湯を飲ませるように、感じにくくする)になるのではないので「しかたがない、ガマンするか…。年寄りは増え、子どもは減るばかりというし、介護保険も要るし…」と、私たち国民はオカミが決めることだからとイヤイヤながらも従う。

(だが、ほんとうに「しかたない」ものだろうか?

「自然災害」から命と暮らしを守り、税制を通じて国民の所得を再分配《貧富の格差を縮小=「社会災害」から人の命と暮らしを守る》することが、国家の二大義務。

消費税の必要は専門的にはいろいろあるのでしょうが、こういうときだけ国民みな「平等」という論法で、カネ持ち・貧乏に関係なく一様に課税する)

 

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 老人となってヒマができ、心にゆとりが生まれると、これまであたり前と思い考えてもみなかったこと、「思考停止」していたことを疑い、考えてみるようになった。

(働きざかり、忙しかったら、なかなかできない。

先日、70歳まで働けるようにしようという政府の考えが報道された。ちまたのインタビューでは、「元気だし、年金はたいしてもらえそうにないので70まで働けるのはありががたい」との声が返っていたが、人間、ヒマができないと考えるということはあまりしたくないので、政治の中枢にある人たちには都合がよいことだろうと、ヒネクレ者の私は思った)

 考えてみるとおかしい・ヘンと思われることがあれこれ出てきた

(上に書いた消費税もそう)

 

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福沢諭吉」のことを内田樹さんが本で述べておられたことに刺激を受けて記事にしようとしていたら、紙幣が変わるという「晴天の霹靂」のようなニュースがあった。

 紙幣のデザイン変更にどんな意味、基準があるのか知らないが、現金は(いくら、カードなどの非現金決済が広がったとはいえ)国民の多くに親しい。

 お札の肖像画がどういう人くらいかは簡単でも知っておきたい。

渋沢栄一?」「津田梅子?」

(前者は事業家、後者は大学創設者のことくらいしか私は知らなかった)

 個人的には「宮沢賢治」とか「与謝野晶子」になってほしかったが、世の中は渋沢さん、津田さんの方が人気があるのだろうか。

(これは人気投票ではなかった)

 

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 福沢諭吉といえば、「天は人の上に人を造らず…」。

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 内田さんの本から、彼が国家や政治をこんなふうに描いていたのだと知り、深くうなずいた。

 

『街場の読書論』から【引用】

福沢諭吉の思想 国民国家をつくるのはそれぞれのローカルな集団の「私」的な事情である。だから、国家というのは、本質的に「私的なもの」だ。福沢はそう言い切る。…

国境線を適当に引いて、「こっちからこっちはうちの領土だ、入ってくるな」とか言うのは所詮「私事」だと言っているのである。…

国境だの国土などというものは、人間が勝手にこしらえあげた、ただの「アイディア」だと福沢は言い放つ。…

(彼は言う)国民国家なんてのはただの擬制だよ。

繰り返し言うが、発生的に国家は私事にすぎない。

 

だが、誰かが「治国天平下」のために生きるということをおのれの規矩として引き受けるとき、その個人の実存によって、「私事としての国家」に一抹の公共性が点灯する。

国家というのは成立したはじめから公共的であるのでではなく、その存続のために「痩せ我慢」をする人間が出てきたときにはじめて公共的なものに「繰り上がる」。国家は即自的に公共的であるのではない。身銭を切る個人が出たときに公共的なものになるのである。…

痩せ我慢というのは、徹底的に個人的なものである。そして、そのような「痩せ我慢」を担いうるのは例外的な傑物だけである。凡人にはそんな困難な仕事は要求してはならない。…

「こんなこと、ほんとうはしたくないのだが、俺がやらないと誰もやらないようだから、俺がやるしかないか」という理由でしぶしぶやるのが「痩せ我慢」である。

 

身銭を切る個人が出たときに公共的なものになるのである

 

政治にたずさわる者はぜひ、身銭を切ってほしい。

(「政党助成金」→創設当時から「おかしなものができたな」と思い続けている私はぜひともこんなもの廃止してほしい。

貧乏がどういうことかが実感できない人に、政治家になってほしくない) 

 

■オマケ 

 もうあの熱気も落ちついた。 

「あの熱気」とは「平成」から「令和」へと元号が変わるときのテレビ放送。

 NHKだけでなく、民放各局もそれは凄かった。

(長年いきてきて、こんなのに遭遇したのは初めてだった。もっとも若いときはテレビをゆっくりみるヒマなんかなかったので、こんどと似たようなことがあったのかもしれません)

 まったくの一直線、横並び。

(大規模災害、事故・事件の報道はわかりますが)

 思わず、戦前の言論統制、戦争一色の時代はこんなんだったのだろうかと、想像した。

 

(前に記事にしたこともありますが)私は退位された天皇陛下と皇后ご夫妻を尊敬している。

(戦前までの「現人神」ではなく、まさに「人間」、ほんとうに人間的な方だと思います。被災された方のそばに座られ声をかけられるお姿など、敬愛せざるをえません。

憲法にある「象徴としての天皇」がどうあるべきかを、真剣に探究され、見事に示されたと思います。

それだけに、「天は人の上に人を造らず…」をかたく信じている私はメディア、報道機関のあり方がとても気になった) 

 

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                             ちりとてちん

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