(前回の続き)
自分も人類のひとりなんだなぁと感慨にふけっていたら、「大したことないなぁ」
という思いと「いや、大したことある」という思いがわき、ふたつが争った。
そして、「大したことある」が「…ない」に勝った。
私は「ひとり」ではあっても、自分と同じ人間は「ふたりといない」という
当たり前をあらためて感じた。
『人間の解剖は…』は、人類の歴史を描いたハラリの世界的に有名な
『サピエンス全史』への著者の思い入れが強く、ある意味、それを前提に
書かれていた。
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ハラリによれば「認知革命」は、7万年前に起こったという。
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「フィクション、…存在しないものを信じる能力(想像《創造》力)により」
「人間は他の生物種に見られないほど大規模な社会的協力が可能になった」
そして、現代の文明・文化がある。
逆に、その「認知革命」の最高到達点としての現代から、
これまでの人類の長いながい歴史をふり返り彼はいう。
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「私たちは何を望みたいのか?
その暁には、私たちは自分の欲望そのものを操作できるようになる可能性がある。
つまり何者にでもなれる可能性がある。
すると、私たちが問わなければならないのは、…「私たちは何になりたいのか?」
ではなく「私たちは何を望みたいのか?」ではないか」
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この本には、人間についての最新の学説と技術がたくさん述べられていた。
学説は客観的な裏づけがあっても、それはあくまでも理論、観念のこと。
言葉、一種の幻想みたいなもので無視できるけれど、
こと技術になるとそうはいかない。
このままだったら、未来は(そこまで人類が続いていたらの話)普遍的・変わらない
と思われていた人間観・人間像が変わる事態が起こるおそれがあるようだ。
きょうの最後は、本にも引用されていたアメリカの自由主義神学者ニ-バーの
言葉を引用します。
「神よ 変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ」
(次回から、ふかく感じいった三つのことだけ書きます。
①「合理」「本性」②「デフォルト設定」③「インフォスフィア」)