♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目のかた)
シリアの内戦で、毒ガスなど化学兵器が使われた(銃やナイフでも、地雷でも、核兵器でも、作ったモノは使ってみたくなるのが人間の心情というもの。作ってはならんのだ!)。
- 先日の台風18号は、大きな被害をもたらした。
- 9月24日(水)のA新聞は一面で、非正規労働の実態を大きく伝えていた (まじめに働いて食えんとはどういうことか?まじめに、だれもが考える必要があると私は思う)。リーマンショックがあり、派遣法が成立した。これで日本の労働者の労働・生活環境は大きく変わった(いまじゃ3人に1人が非正規労働という。私が若いころ、「非正規労働」という言葉は存在しなかった)。 その一方では、「アベノミクス」。1980年代のバブルに似てきたらしい。バカ騒ぎが起こっているらしい(「NISA」ニーサという大銀行・大証券会社の一般大衆・市民向け投資のCMをはじめてみた。税金がかからない資産運用とのこと。ヘェー、そうかい)。
毎日まいにち、戦争や災害のニュースが絶えることはない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」。戦争では勝ったほうが「正義」とされるが、戦争=殺人レース。それに「正義」なんてあろうはずがない。愛する家族や友人を殺された悲しみは、復讐となる(こんな極限状況ではサスペンスドラマのようにやわい言葉は通用しない。「それでも人を殺してはならんのです」とはいかない)。パレスチナとイスラエルの紛争(戦争)をみていると、いやでもそう思う。
「復讐」。「正義」も「愛」にはかなわないのだ。「愛」は、奪った相手への憎しみ・悲しみの憎悪にかわる。そして、紛争(戦争)はやった・やられたを繰り返し、際限なく続く。とほうもない地獄への道をたどる。
しかし、戦争は自然災害ではない。ひとりで起きるのじゃない。原因を突きつめれば人間の欲望のせいだ。パレスチナとイスラエルの紛争(戦争)も、根っこ・はじまりは第二次大戦後のヨーロッパ大国の思わくにみちた線引き(両国の境界をどこにするか)にあった。1994年、アフリカ大陸奥地のルワンダ内戦の凄惨きわまった現地人どうしの虐殺(ジェノサイド)も、深い根は植民地時代のヨーロッパにあった。あまりにむごすぎる。
テロは戦争の「落とし子」だ。イスラム原理主義派戦闘集団「アルカイダ」は自分たちのテロを正当化するために宗教をもち出す。だから彼らのテロはただの人殺し(犯罪)なのに、「聖戦」(「聖戦」ならキリスト教は「十字軍」がある。こっちが歴史的には格が上?)だとほざく。
ついでに言えば、真の宗教(真の文学も近い)は、自分が正しいなんて言わない。
そうだ。私は戦争を論じたかったのじゃなかった。が、思い出した。
『古事記』が書かれて1300年。妻は一度よんでみたかったというその古典を図書館で借りた。権力をめぐって親子・兄弟が、そこまでするかの究極の殺し合いを演じ、血を流す話の連続(果てに、いまの天皇一家がある)に、自分が人間であることがイヤになると言っていた。が、生まれかわったらなんになりたい?ときいたら「人間」と答えた。こっちは(好きな)虫と答えた。
世界を見わたせば、悲劇は日常茶飯事。必ず、どこかでだれかが飢え、大ケガをし、死んでいる。
いま・ここで、私が悲劇に遭遇していないのは、ただウンがいいだけである。たまたま…。
便座に腰かけ用を足していて、そんなことをフッと想った。便をしながらなんてことを…。もちろん、こんなとき心に浮かべることではないが、逆にこんなリラックスしたときだからこそ、余裕があってこそ、想像できる。
古今東西(世界じゅう)、言いつくされたことではあるが、幸運と不運はコインの裏表ということを、あらためて強く思ってみた。
この幸運をいかすことが、死んだ人への、生きている者のつとめだと思う。
ヒョウモンチョウ といいます。
豹のような紋をしているから「ヒョウモン」。
翅の一部が欠け、痛々しい。
ヒョウモンチョウの声がした。
「生きるのはたいへんなんだヨォー」