♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目の方)
はじめての記憶・思い出は、4,5歳ころに始まる。
(チベットとかでは誕生まえ、つまりお母さんの胎にいたころのことを覚えている子がいるらしい。残念ながら私の場合、そんな摩訶不思議はなにもなかった。なんでもいいからそういう不思議な体験がほしかった。
そういえば、もうじき8年目になる突然の事故。入院しばらくは妻がしつこくきいた。「よーく思い出してごらん。その瞬間、なんか見えなかった?」。期待に応えたがったがウソはつけなかった《せっかくの臨死体験だったが》)
うまれたのは昭和26年。
おとなに成長し、戦後たったの6年しかたっていなかったのだと、感慨深く思った。6年なんて、障害者になってからの自分より短かい。
ところでふるさと。すぐ四方を山に囲まれ、家の前には小さな川があり、連ドラ『花子とアン』の風景によく似かよっている。60年という月日が流れても、外見はほとんど変わっていない(人間もこうありたいものだ)。「開拓」や「開発」からは放っておかれてきた(それはイイさ!)。
子どものころは、「田舎」と「都会」という考え自体がなかった。が、思春期になるとさまざまな体験をすることになり、人びとの生活に大きな差があることに気づいた。
『花子とアン』時代、すでに甲府と東京であんなにちがっていたのだ。
ひとつ。15歳のころ。従姉に、はじめて喫茶店につれて行ってもらって「パフェ」なるものを食べた。世にはこんなうまいものがあるのかとおどろいた。
もうひとつ(こっちはカルチャーショックを感じた)。同じく15か16のころ、親元をはなれ全寮制の高校生になったときの話。
同室の友人に紅茶を出された。湯がそそがれたコップに糸がついた紙の袋。困った。どうすれば紅茶が飲めるのか…?あとから、糸つき小袋を「ティーパック」といい、糸を持ってコップの湯にたらせばいいことを知った。このとき、コーヒーの抽出にサイフォン式というものがあることも知った。いまにして思えば、「倅(セガレ)」のこっちとちがい、彼は「おぼっちゃま」だったのである。
(この時代。いろいろ「知る」ことがあり、私はおとなへと成長した。
「性のめざめ」に関する話もある。はずかしいが《はずかしくはないか》、正直なところ、赤ちゃんがどうして「うまれる」のか、もうひとつわかっていなかった《ホントである。さすがに桃やコウノトリからうまれるとは思っていなかった》。私のところでは牛や馬は幼いころからなじみで、お産もなんども見たことがある。それなのに、同じ生き物なのに人間のそれを想像したことはなかった。オマケの話だが、女の人の生理の存在もこのごろはじめて知った。悪友にさそわれ「バー」にも一度だけ行ったことがある。なんでも経験だと思ったのだ。そこで店のママさんが「にいさん、いいもの見せてあげようか?」とマッチを擦ったが、なにが見えたのか覚えていない)
小さいころ住んでいたのは伯父の家だ。
せまいボロ家で、部屋はいちおう分かれていたが、ただ障子やふすまで仕切られていたにすぎない。それでも、上間(もっともいい部屋。私のところでは「カムデ(「神出」?。神さまがお出でなさる部屋)」と呼んでいた)には仏壇がすえられ、鴨居には祖先と、戦争や自殺で早々と死んだ親族のセピアの写真(肖像画?)がかけられていた(テレビでもよくみかける。全国的な伝統的庶民文化のひとつだろうか?)。
まだ次がうまれていなかったので祖母をふくめ五人家族の伯父の家に居候していたのは父一家(ウチ)だけではない。父の兄弟姉妹たちがよく出入りし、ときには居つき、あるときは20人ちかくになった。広さからいえば『大草原の小さな家』のインガルス一家には勝ったが、人口密度なら完敗した。
いまにして思えば、大家族だったのだ。
まさに「井の中の蛙」だった。
③へ続く
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