カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

カメキチの目(2015..1.22 山の時間②)

 

   おたずねくださり、ありがとうございます 

  

   

                

 

 道路は整備されているが、グルグルクネクネ、蛇のように曲がりくねっているので、よく揺れる。長いので、乗っているだけで疲れ、眠くなる。

 眠くなったけど、無理な姿勢でカメラに夢中になり、あちこち向いていたら酔ってしまい、ゲーゲーやった(が、胃はないのでなにも出ない)。

 目にとびこむのは、ほとんど山。また山だ。

 

 「分け入っても 分け入っても 青い山」                    

                       

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 種田山頭火の俳句が浮かんだ。

 こんな奥深い山中に死体を放棄すればだれにもいつまでも発見されないだろうなとつまらんことを想像した。あきらかにサスペンスドラマのみ過ぎである。だれかを殺すつもりはまったくないのでこんな想念はすぐ消えた。

 次に、やはり住む人のことをあれこれ想った。ひとりひとり、いろんな経緯で、縁で、ここに住むことになったのだろう。

 次に、いまは山の外から眺めている私の人生の不思議を思った。故郷は同じように山深い。ことによれば、そこで生計をたてていたかもしれない。中学卒業まぢかの私は、どこでそういう感覚を身につけたのか、どうせ短かい人生、世界中を見たいと海にあこがれた。

 

 ところで、(急な話の転回ですみません)いま読んでいる本にこんなことが述べられてあった。

 私たちは「過去と現在と未来」という、『時間』の先・後によって区切るみかたで生きている。いってみれば、「前のめり」になっているというのだ。そんなふうに『時間』を意識しすぎたというか、『時間』を気にしすぎた生き方をしていると。そういえば、いつも「いま何時かな?」と思って生きている。

 なるほどなー、と思った。私たちは、なんでも、無意識のうちに昔・いま・先とも考えている。思っている。そういう「前のめり」で、生まれてこのかた生きてきたのだ。

「いま」はいつでも分水嶺である。しばし、そこに立ち、上流・下流を見つめてみるとするか。

 

 もの音ひとつしない山の宿で、健気にそんなことを考えようとしたまではよかったが、疲れも加わった頭は眠気におそわれ、いつの間にか寝ていた。

 で、だからなにを考えたというわけでもないが、静寂に身を沈めたということがたいへん貴重だった。

 その本にいわれていたことが、なんとなくわかった気がした。

 

                          ちりとてちん

 

22 りす

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 かわいいですね。

そうです。リスはかわいいのです。

(いつかテレビで、寒い冬にそなえ、秋、ドングリなどの

木の実を隠しておくのだと聞きました。えらい!)

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