カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

カメキチの目(2015.6.9 続「あいまい」)

 

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   おたずねくださり、ありがとうございます 

  

   

 

 

〈言葉や記述がヘタクソなので、わかりにくいかもしれません。「あいまい」な理解でけっこうですからお読みくださいね〉

 

「そもそも…」と、原点・根本に立ち返って自らに問うて  みることは大事だと思う。

 

 何かに悩んでいるとき、「はたして、これは悩むべき価値があるだろうか?」と問うてみる。と、

 つまらんことにこだわっていたな、いらんことにエネルギーを使っていたな、と気づくことがある。

 ともかく、いっけんバカらしく、ムダにみえても、

「そうだったのか!」と答えが出なくても、

よく生きるために必要な、だいじなことではなかろうか。 

(問うたことじたい忘れたころ、ヒョッコリ、ヒントのようなものが出てくるかもしれませんね)

 

 

「なぜ私は『私』なのか?」

「なぜ『ここ』に『いま』いる(存在している)のか?」

 

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■ この前の本(『「あいまい」の知』)には、あるモノが何であれ、それをそれだけで(独立して)、周囲のさまざまなものから切り離して考えてはならないと、一人の学者さんの意見・主張でなく、分野の異なる専門家みなさんそろって述べられている

(仏教の“縁”の考えと同じだと思います)

 たとえば、いまこうしてブログを書いている自分をあらためて観る。

 パソコンに向かっている私がまわりすべてと一体となり、「一枚の絵」として見えてくる。まさに、“ジグソーパズル”。

 その背景に私も構成要素として溶けこんでいる。何が「主」だとか「客」とかはない。

 私という存在も風景の一点でしかない。

 続けて、突っこんで考えてみる。

 すると自分という人間は、たまたまどこそこに生まれ、どこそこに生き、いま、こうしてここにいる歴史的な存在・一つの存在であることに気づく。

 

 その後、あらためて「一枚の絵」の全体をみた。

 すると、

 絵が生き生きと動き出した。

 

 もちろん、生き生きと動き出したのは私一人だけのことじゃない。すべてはつながっている。

 私がほほ笑めば、あなたはほほ笑み返す。あなたが涙を流すと、私は平静ではいられない。 

                    

                   ちりとてちん

 

58 新幹線

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これは3輌なので、同じ色の折り紙3枚です。 

(だから16両編成なら16枚)

こんな細工したら“折り紙”でなくなりますが、車輪をつけ加えたいですね。

 

 

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