カメキチの目
「喫茶去」をもっと考えてみた。
仏教といってもさまざま。
だが、どの宗派もきちんとした教義をもっている。
仏教以外に世界各地の多くの人びとが信仰しているキリスト教やイスラム教があり、それらもさまざまな宗派があります。
キリスト教はいまこそないですが、かつては十字軍遠征とか宗教戦争があったし、イスラム教は、いまはテロという戦争をやっています。恐ろしい。
そう思うと仏教はいいです。いろいろあっても、自分が唯一絶対だといいません。
その一つ。禅宗。
その教えはおもしろい。 生きるうえで考えさせる。
それは、まだ私が他の宗派をよく知らないからです。
浄土系の仏教は他力本願で、そこが自力本願の禅宗と決定的に違うようだ。
それぞれよさがあるのだろうが、ああでもない、こうでもないと堂々巡りしても、「禅問答」は考える刺激があるので私は禅にひかれてしまう。
前の「喫茶去」は、玄侑宗久さんという僧侶兼作家の『「いのち」のままに』という著作で述べられていたものを、自分流に書きなおしたもの。
(禅語は抽象的で、わけのわからないものが多いですが、受けとり方も人によってニュアンスに多少の違いがあり、そこがまたおもしろいです)
この方は、禅の教えは古今東西(いや、西はないですね)、身体に始まり身体に終わると説く。
身体にこだわる。
私もそう思う。身体に障害を負ってからはとくに思う。
身体にもっと耳をすましてみようと玄侑さんはいう。
自殺願望は「死にたい」と言う。そのときの心はそう思い、心が身体をしのいでいる。心が身体を支配しているのだ。
人は追いつめられたとき、なかなか立ちどまれない。
立ちどまるために、一つの道、行いとして『喫茶去』がある。
身体に訴えるのだ。
口に働きかける。湯のみに手をそえて、口をあけ、ゆっくりお茶を味わう。「ゆっくり」でなくてはならない。急いでいたら味わえない。
ともかく、お茶をのむ。お茶をのむという身体の動き、感覚が、「立ちどまってみよう」「待ってみるか」と逆に心に作用する。
(ずっと前、お布施の一つ「顔施」のことを書いたことがありますふつうの施しは「財施」といいます自分の心が沈んでいても、無理してでもニコッと笑ってみる。顔の筋肉を動かす。筋肉のつくり出す笑顔は、相手を気もちよくさせるだけでなく、自分の心を晴らします)
- 身体の声を聴こう -