カメキチの目
NHKに『小さな旅』という番組がある。
雰囲気としては、それに近い旅をした。
でも、
よくわからない景色に出あっても、「オカーサンまたはオトーサンいまなにをしているんですか?」とは一度も言わなかった。
だいたい自分の母や父でもないのに、どうしてそう言うのでしょう?親しみをこめて言っているのはよくわかるのですが…
前は北海道で「大きな旅」だったが、こんどは近場。海をのぞみ、のんびりした。
前のは私、こんどはツレだが、ともにいちおうは誕生日記念としている。「大・小」はまったく関係ない。
いつも「のんびり」しているじゃないか、と言われそうですが、それは私だけのこと。
暑かった。が、よく歩いた。
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初日。
テカテカ太陽が照っていた。
はじめての電車に乗り、はじめての海辺の街へ。
「はじめて」だらけ。
おかげで、自分も「さら(更)」になった気がした。が、暑くてあつくて汗と垢だらけ。「さら」どころじゃなかった。
支線(2両でも「電車」)に乗り換え、つき止まりの駅まで乗った。
着いたところは小さな海辺の街。
「はじめて」ということは何もかもが新鮮だ。
私はノー天気で「どこでもゴザレ!」と言えばすむが、ツレは慎重・ていねいタイプ。なんせ障害者を連れての旅。なにかと気を遣う。
目的地までの乗り物の発着・乗り換えから、昼飯はどうするか、宿に入れる時間・送迎車の有無・あればその時間…「想定外」を含め、あらゆることを勘案して計画を練り、立てる。あまりそこにエネルギーを注ぎすぎるのか、たまに忘れモノもあります。忘れ物はいいのですが、計画立案ですでに疲れ過ぎ、本番でのんびりしても疲れはとれないのではないか…
初日はけっこう有名な神社を訪ねた。
ふつうの足で15分もあればじゅうぶんの路を1時間近くかけてブラブラ歩いた。もちろん、私の平衡障害のせいだけではない。出あうものへの興味、カメラもある。
歳をとるとヨレヨレになる。
エイジングのせいでシワクチャ(まではいってないか)になったが、心は子どもに還る。好奇心は盛んになり、何でも見、聞き、触り、食べ、知りたい。
もちろん、単純に子ども返りするのじゃない。そこはソレ、こっちは甘いも酸いもなめてきた大人。「好奇心」ということでは同じでも、味わい方が違うのだ。なんと大人げないことを…
神社に着いた。
土地の名物。緑があざやかで、ヨモギの味たっぷりの「草餅」寅さんが想われましたを口にし、この夏は一度も聞いていないヒグラシの鳴き声を聞いた。
聞いて、なんか得した気分になった。
宿に着いた。
標高はそれほど高くはないが、山の上にある。
宿からの景色は雄大で、大海原を見下ろした。これが本物の「絶景」かと感嘆した。
よく旅番組に出てくる鎌倉の小高い山から江の島を見おろすのはこんなものだろうか。
宿には絶景を眺めながら浸かれる天然温泉風呂がある。PHが高く、老人性のまったく艶や張りのない肌が電灯にピカピカと照らされた。
湯に浸かっていると、「働いている人、忙しくされている方に申しわけない」という気もちが起きてくるが、「これまでいちおう真面目に働いてきたもんな」と自分に言いきかせ、遠慮がちに正当化した。
翌日。
きょうもすばらしい天気で、天に向かい深くオジギした。
朝食後、すぐに宿のまわりの林を歩いた。
散策道が整備されており、きのう以上の汗だくになり、なんと宿から見下ろした海まで下りた。
深い林間からはミンミンゼミまで鳴き声が聞こえた。
また得した気もちになった。それだけでなく、こんどは入院中のことも思い出させ、ちょっと感傷的にもなった。
簡単に書いているが、狭い海辺までの上がり降りはたいへんだった。私を介助するツレはヒヤヒヤもんだったと思う。
10年経っても、私が自分の障害に慣れることがないと同じように彼女も介助に慣れるということはないだろう。
ときどきフッとしかたのないことを思います。そういうことはぜったいあってはならんですが(私の亡きあとツレには、やっとお荷物から解放されたと残りの人生を精いっぱいおもしろく楽しく過ごしてほしい)、こっちが残されたらどうしよう?
しかしすぐ忘れる。
打ち寄せては返す波ぎわまで下りた。
波の姿を見ていると、いろいろなことが想われる。それがいい。
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帰り。
ひさびさにケンカした。
宿の送迎車のイス私がキャリーバッグを自分の都合で無造作に置いたのをツレが見とがめ、自分の膝に乗せた。こっちがそれを見とがめ彼女の膝からひったくった。ひったくったとき、まわりの他のお客さんをかえりみることなく、私は「……」と少し声を荒げ、ツレに痛切なイヤな思いをさせてしまった。
彼女は常々、まわり、他の方への迷惑をかけないこと、エチケットを守ることのたいせつさを身をもって示している。
いけなかったのは、たとえ、障害のせいでイスに乗せる方がラクでありはしても少しは汚れているかもしれないキャリーバッグを平気で、イスの空きが多くあろうとも、置いた無神経さである。
ただただ反省あるのみ。
私は自分のことをよく「いい加減」と言うが、正確には、よくないことと感じていても「これくらいいいだろう…」と平気、無造作にやってしまう「無神経」「ご都合主義」者なのだ。
最後のツメが甘く、おかげでちょっと苦い旅となった。苦いが、甘くもあった。