カメキチの目
また禅語です。
‐ 明 歴 歴 露 堂 堂‐
(めいれきれき ろどうどう)
「存在」するものはみんな、それだけで足りている。
飾ったり、化粧なんかしなくていいのです。 あなたは「素」「露」だけでいい。
と言えば、化粧業界から猛反発されそうですが(されてもいいです)、いまは「美白」が取りざたされていても、前には「小麦色」が…(と言うのは半分冗談)。
自然な、あるがままの姿・態度にこそ仏の心が宿っているということ。
自然をありのままに、無心に感じなさいということ。
むかごは「むかご」。
事実、そうなのですが、むかごをずっと見つめていると、その一つひとつが仏さまにみえてこないではありません。
むかごはなぜむかごなのか?という問いは、
仏(神)はなぜ仏(神)なのか?と問うことと同じなのでしょうね。
日日を生きるうちに、いつの間にか、自分自身も気づかないで世間の「垢」にまみれ、ストレスを溜めている。
世間や社会を「基準」と思いこみ、そう在らねばとムリに背伸び、努力しようとしている。
その点、(前にも書きましたが)私は働いているとき自分の給料が低いのは自分の働きが悪いのではなく、私の労働をきちんと見ない社会が悪いと思っていました。
だから、もっと努力しよう、がんばろうとは思いませんでした。
ところで、さっき言った「飾り」や「化粧」。
原始の時代から存在し、いまも未開といわれる部族社会でもよくみられるので、人類に普遍的なものかもしれませんね。「遊び」の要素もあるから持続するのでしょう。
しかし、美白も小麦色も「好み」の問題ではないでしょうか。
心が疲れたときは、ともかく自分の五感で、ありのままの自然をいっぱい感じてみよう。
野山に出かけて鳥のさえずり、流れのせせらぎに耳をかたむけるのもいい。
冷たい水を両の掌ですくって喉をうるおすのも、草原に寝ころび(「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」啄木) 、さわやかな風に頬をなでられながら、流れゆく雲をみるのもいいですね。