カメキチの目
たまに、まじめに自分というものを見つめてみる、ことがあります。
「信念」
というほどの、自分を律するものがあるだろうかと問うてみる。
ないなぁー
こうしたいなぁと思っても、そこに「壁」が立ち現れると、望みをかなえるための努力をし、その道を進むことにこだわるのではなく、楽な道を探す。楽を選択する。
そして、その選択の言いわけ探しに「努力」する。
自分を律するほどの強い心、思いは私にはない気がしている。
そうであっても、
「信念」の有無にかかわらず言いたいこと、言うべきことは言っておかなければならないと思っている。
あつかましいとは自覚しています。そういうわけで、よくエラそうなことを言っていますが、お赦しください。
11月13日に書いた禅語『莫妄想』のガンジーの言葉。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
「信念」に自信がなくても、この言葉は好きだ。
信念がないと「ぶれる」もなにもないと思うのだけど、
「ぶれる」を想った。
「ぶれる」とは、goo国語辞書によれば、
①正常な位置からずれる。「スイングのときに軸がぶれる」 ②写真をとる瞬間にカメラが動く。「ぶれて像がぼやける」 ③ 態度、考え方、方針などがあれこれと揺れ動く。「首相の姿勢がぶれることはない」とあった。
ふつうは③が問題になる。
もちろん、①とも関連して、そもそも何をもって「正常」とするのかという前提そのものがもっと大きな問題だ。
しかし、「正常な位置」が変わらないかぎり、ぶれてはならない。ぶれないようにしたい。
「信念」。つまり「正常な位置」がなくても、そう思う。
しかし、「正常な位置」とは、ほんとに「正常」なのだろうか?
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そもそも「正常」というものがあるのだろうか?
「ある」としても、それは初めからあるのではなく、
迷いながらも「こうありたい」「こうしたい」とつくってゆくものではないだろうか。
ガンジーの言葉が駆けめぐる。
同時に、前回書いた「普通」も駆けめぐりました。