カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.2.13  ぶれる

                                                  カメキチの目

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たまに、まじめに自分というものを見つめてみる、ことがあります。

 

「信念」

というほどの、自分を律するものがあるだろうかと問うてみる。

 ないなぁー

こうしたいなぁと思っても、そこに「壁」が立ち現れると、望みをかなえるための努力をし、その道を進むことにこだわるのではなく、楽な道を探す。楽を選択する。

そして、その選択の言いわけ探しに「努力」する。

 

 

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 自分を律するほどの強い心、思いは私にはない気がしている。

 そうであっても、

「信念」の有無にかかわらず言いたいこと、言うべきことは言っておかなければならないと思っている。

あつかましいとは自覚しています。そういうわけで、よくエラそうなことを言っていますが、お赦しください。

 

 11月13日に書いた禅語『莫妄想』のガンジーの言葉。 

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」

 

「信念」に自信がなくても、この言葉は好きだ。

 信念がないと「ぶれる」もなにもないと思うのだけど、

「ぶれる」を想った。

「ぶれる」とは、goo国語辞書によれば、

①正常な位置からずれる。「スイングのときに軸がぶれる」 ②写真をとる瞬間にカメラが動く。「ぶれて像がぼやける」 ③ 態度、考え方、方針などがあれこれと揺れ動く。「首相の姿勢がぶれることはない」とあった。

 ふつうは③が問題になる。

 もちろん、①とも関連して、そもそも何をもって「正常」とするのかという前提そのものがもっと大きな問題だ。

 しかし、「正常な位置」が変わらないかぎり、ぶれてはならない。ぶれないようにしたい。

「信念」。つまり「正常な位置」がなくても、そう思う。

 

 しかし、「正常な位置」とは、ほんとに「正常」なのだろうか?

 

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 そもそも「正常」というものがあるのだろうか?

「ある」としても、それは初めからあるのではなく、

迷いながらも「こうありたい」「こうしたい」とつくってゆくものではないだろうか。

 

 ガンジーの言葉が駆けめぐる。

 

同時に、前回書いた「普通」も駆けめぐりました。

 

 

                 ちりとてちん

 

 

 

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