カメキチの目
先日のこと。
「はてなサン」から知らせがあった。それはきょ年やおとどしのあなたの記事をふり返ってみませんか、というもので、1年以上やっている方には「ああ、アレ!」とおわかりいただける。(アレです)
一瞬、面倒くさいなと思ったがめげず、ためしに2年前のヤツを見た。
その記事は、「死」について古代ギリシャのエピクロスの言葉だった。大好きな仏教家(坊主ではありません。いちおう仏教学者で、ご本人は「仏教者」と言われています)ひろさちやさんの本に載っていたものを読んでの私の感想だ。
いま、これを見て(読んで)思った。ちっとも自分の死生観は進歩していないなあ、と。
でも、「これでいいのダ!」
「真実は、美と同じくシンプル」
あれから2年たったが、自分なりに触れた死生観の言葉。なかには気にいったのがあったが、それらはけっきょく、「言いまわしは複雑、長く、違っていたが、別な言葉に置きかえただけ」のような気がした。
ちなみに、2年前の記事というのは下のとおりです。
(ここでひろさんの言葉「インドに生まれりゃよかった」がありますが、つい先日、ずいぶん前から気になっていた遠藤周作の『深い河』を読みました。
最後の方で、聖なるガンジス河のほとりで繰りひろげられる庶民の「生」と「死」が同居したふつうの姿と、それまで描かれた日本人の登場人物たちの生き方とが交差し、ひろさんの「インドに生まれりゃよかった」を実感した気分になりました)
世界は広い。世の中は私の知らないことに満ちあふれている。
【言葉】それを知っているか知らないかでは決定的にちがう、重い言葉がある。
たとえば、エピクロス(古代ギリシャ哲学者)の次の言葉はそうだと思う。
「死はわれわれにとって何ものでもない」
要は、死についてあれこれ悩むことはないということだ。生きているときは死んでいないし、死んでいるときは“死”を思うことはできない。
私は死ななかったけれど、突発的な事故に遭った貴重な体験からも、エピクロスの言葉にはすなおにうなずく。
きっと“死”はいつの間にか私たちのもとにやって来て、安らぎを与え、包みこんでくれるものにちがいない。
ブランコの心地よい揺れみたいに。
そう思えば、“死”は気楽なものになる。
この言葉。じつは、大好きな仏教学者ひろさちやさんの文庫本に載っていた。仏教では、“死”は忌むべきものじゃない。生きることは死ぬこと。“生即死”なのだ。
ひろさんは言う。現代の日本の病院では患者を医療づけにし、“死”を怖いものにする。
「インドに生まれりゃよかった」とも。
そうか…。古代ギリシャとお釈迦さまはつながっていたか。人の思うことは、地球のどこにいてもいつ生きていても、だいたい似た考えになるものかもしれない。