カメキチの目
サラリと心を変え、きょうは禅語。
無一物中無尽蔵 花有り月有り桜台有り
(むいちぶつちゅうむじんぞう はなありつきありろうだいあり)
蘇東坡という中国の北宋時代の詩人の詩の一節だから、正確には禅の言葉とはいえないかもしれないです。
なにもない中に、尽くせぬほどある。
なんにもないと思っていても、なんにもないモノやコトの内に限りないほどいっぱいあるのじゃないか。
逆に、あふれるほどあっても(あると思っていても)じつは、中は乏しいのじゃないか。
ちょっと、「断捨離」に通じるところもありそうです。
本来は、心や精神における「空即是色、色即是空」みたいな仏の教えと似ているけれど、また違ったところから人生の真実を照らした言葉のように思える。
前に「偶有性」ということを書いたが、これにも通じるところがありそうだと思った。
「自分なんて…」と自らの存在価値を否定したくなったとき、世界のすばらしさ、多様な姿はふだんは隠されているので気づかないけれど、それらはちゃんと自分につながっている。
社会から「疎外」されていると感じてたまらなく寂しく悲しくなることもあるけれど、すなおにまわりの世界をみれば、自分とそれらのつながりも感じる。
現実の私は、彼でもなく、「この私、この自分」には違いない。けれども、彼でもありえた。
「彼」ではなく、かのネコ、イヌ、草花、樹木だったかもしれない。
後半の言葉
花があって、月があって、桜台(高い建物や屋根のある台)がある。これで十分。これ以上、なにが不足というのだ。
さすがは中国の名詩人だけの言葉だけあって、内容が壮大なだけでなく、朗誦したくなってくるほどリズム感がよい。調子にのって「…ハナアリ、ツキアリ、ロウダイアリ」とつぶやきたくなってしまう。
あるとき「目から鱗」のようにハッとした。
「足るを知る」という言い回しもあるが、「満足、まんぞくじゃ…」と思えば、それ以上さきを求めたり、もっと努力を…と思わなくなった。
都合のいい話ではあります。「努力」をしないことの言いわけとは。
「怠惰」の正当化。「停滞」「沈滞」「どんより」「にごり」になってくるかも…
しかし、よくいえば幸せにつながる。
「花」「月」「桜台」の代わりは、その気になれば、いくらでも発見でき、いくらでも楽しみ、喜べそうです。
ここらでどうしても、限りのない経済成長(「経済」ですよ。「難病の治療」などではありません)の努力はやめ、限りない安楽生活、長寿、長生き、アンチエイジング…(極めつけは「人間改造」「人間製造」ですかね)を求めての、ジ・エンドのない研究開発の人間的な意味を問うべきでは…
じつは用事でこの28日から6月5日ごろまでブログを休みます。みなさんのところにお訪ねできなくてゴメンなさい。