カメキチの目
きょうは禅語を書きます。
遊 戯 三 昧
‐ゆ げ ざ ん ま い‐
答えの出ないような問いと、答えになっていないような答えを、よく「禅問答」といいますが、禅のなかの禅ともいうべき中国宋代の古典『無門関』のなかに「遊戯三昧」があります。
「生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向って遊戯三昧ならん」
六道は衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のこと。
四生は四つの悟りの世界(声聞・縁覚・菩提・仏)のこと。
遊び戯れに没頭するということ。
それはそれでいいのですが…
単独で「遊戯三昧」ということではない。
『無門関』においては「生死岸頭に於いて大自在を得…」
生きることに真剣になるのなら(とうぜん、それは「メメント・モリ」《ウィキペディアをみてください》の精神で生きること)自由自在な境地になる。
そんな境地になれば、「六道四生」(よくはわかりませんが、「悟り」のようなものでしょうか)に向っては、重要だと信じていることも「遊戯」みたいなものであり、現実の態度は慎重、ていねいではあっても、「遊び心」を持つことは忘れまいということかな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しょせん人生は思うように、望むようにはいかない。
そんなあたり前のことだが、幸と不幸はコインの裏表のようなもの。どっちも半々、五分五分。
あえて望みもしなかったことが実現し、Vサインすることもある。
しかし、たいていは思うようにはならない(かった)。願いはかなわない(かった)。と思っている。
だから、不幸が幸より多かったと勘違いしてしまっている。六四または七三で不幸が勝つ(った)と。
生きてゆくなかでは、自分で選んだものでなく、選択する余地さえなかったことがいっぱいある。
たとえば、いついつどこそこのどういう家に、どんな体つきで生まれたとか、災害に遭った(100%自然が原因ということはないでしょうが)とか、障害者になったとか…
それらは「不運」(と、自分が感じ、イメージしていること)ではあるが、きちんと受けとめ受けいれれば、「幸運」にもなれる。
私は、自分の身体がもとに戻ればなぁー、治れば…と思うことはしょっちゅうあるのですが、現代の医療では不可能だろうとわかっているし、それに長く生きてきたとも思っているのでこのままでいいかとも思っています。
かっこよく言えば「受けとめている」んですが、自転車を漕ぎ、自動車を運転している夢(寝ているときの)をいまだにみています。