kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2017.11.5 『内田樹の生存戦略』⑦

                                                  カメキチの目

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Q

「いじめ」はなくなるのでしょうか?

 

競争原理の中にいる限り、「いじめ」はなくなりません。

でも、今「いじめ」というのは学校の中だけの現象ではなくて、日本社会全体を覆い尽くしているものだから、ある意味ではどこまで逃げても逃げられないのかもしれません。

60年代からの高度経済成長によって日本はいつのまにか経済大国になってしまった。するとそれまで日本人同士支え合っていた互助精神が希薄になり、鮮烈な「パイの奪い合い」が始まります。

 

 

「いじめ」については、いろいろな立場にある人がさまざまなことをいわれている。

 人により「いじめ」の定義をどうするか、どう位置づけるかによってさまざまな「いじめ論」がでてくる。

 けれども、

 私としては正直、「いじめ」の定義の議論はどうでもいい。

 誰もが人間としてごく自然に、これは「いじめ」なんだろう…と感じるようなイヤな、不快なものごとがあれば、それを「いじめ」といってよいと思う。

「過敏になりすぎ」とか「思いすごし」ということはないと思います。

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「いじめられる側も悪い」「いじめられる理由がある」…など、「いじめ」を正当化する理屈だけはぜったい受けいれられないが、そうでなければどれにもうなずく。 

 

 

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 よくいわれる「いじめ」は、水戸黄門的な、「善悪」がきわめてわかりやすい構図のものが多い。

水戸黄門」は単純でわかりやすいので私は胸がスカーっときますが、時々は「世の中、それほどハッキリ白黒つけられない」とボソボソつぶやきたくなる。

その点、よくできたと思うサスペンスドラマなどは、加害者=「いじめ」ではなく、むしろ「いじめ」は、(誤解もよくあるのですが)被害者の側にあり、私は、泣くなく「たいへん申しわけないことをしてしまいました」「殺すんじゃなかった…」と後悔する加害者の方に同情してしまうことがしばしばです。

現代の法治社会では、いくら同情の余地があろうとも、法は絶対であり、犯してはならぬものだから、くたびれ気味の人情刑事もダンディな右京さんも、酷い「いじめ」をしたがゆえに被害を受けた者に対してではなく、ある意味では罪を犯さざるをえなかった加害者に手錠をかけるときは心で泣いていたと思います。

 

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 しかし、個別の明らかな「いじめ」を許さないだけでなく、その温床ともいえる社会システムそのものがうみ出すわかりにくい・目に見えぬ「いじめ」にも注意していかなくてはいけないと、内田さんの言葉を聞いて思った。

 

 内田さんは、「競争原理」の中にいる限り、「いじめ」はなくならないと述べられているが、私もまったくそう思う。

 また、「いじめ」という現象は学校だけ、子どもだけのことではないといわれる。このこともまったくそう思う。

 

「競争原理」ということは、「競争」が法則のように支配していること。

 あらゆるものが(人間でさえ「労働者」として)商品化される資本主義の市場においては「競争原理」の外で生きるのはムリな話なので「いじめ」も、資本主義の世の中では一種の普遍性があり、けっしてなくならないにちがいない。

「競争原理」は必ず勝者と敗者をうみだす。

 

 その場合、勝者が敗者を「いじめる(た)」とはいわない。

「『いじめ』という意図はなかった」「彼(彼女)をそこまで(自死)追いこむとは思わなかった」「つもりはなかった」……。

会社など大人社会のセリフは、そっくりそのまま、学校など子ども社会でもしゃべられている。

上司や、先生は、「見ぬけなかった」…と。

 

 勝者には爪の垢ほども「いじめの悪意」などなくても、「卑怯・残忍なやり方」ではなくても、まったく正当な活動をしていたとしても(他社との競争に勝つのが市場原理なので、結果的に働かせすぎ《同じに働いても、耐性は個人によって異なります。Aさんには耐えれてもBさんは耐えられず、自殺ではなくとも》、過労死する。「ブラック」という働き方を強要する企業・事業所にいたっては論外)客観的には泣く人々が大勢うまれている。

 

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 ひょっとして、私も誰かを「いじめ」ている(いた)んではないか?

 加害者になっている(いた)のではなかろうか?

(いまがヒマだから《ヒマではない》思うことかもしれないのですが)、自分が生きているという事実を考えると、ここまで生きてきたことが「ただごとではない(なかった)」と思えてくるのです。

長く生きてきたうちには、誰かを泣かせてきたに違いない。そのつもりがなくても…

自分では他人を蹴おとしてというつもりなんかサラサラない(なかった)、「個人主義」だが「利己主義」ではない(なかった)…そんな生き方をしたつもり…

 

「いじめ」をまじめに考えてみると、何かたいせつなことに気づくような気がしました。

 

                  ちりとてちん

 

 

 

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