カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2011.11.26  「科学」と「技術」

                                                  カメキチの目

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「科学技術」について考えることがあった。

 

 よく「科学技術」と、「科学」と「技術」をつなげていう(私もそうしてきました)

 でも、「科学」と「技術」は密接不離な関係にあっても本来べつものであり、別々に述べなければならないと、ある本に書かれていたことを思いだした。

そこでは、たとえば「飛行機が飛ぶ」ことをみたとき、地球の重力にさからって物体が空中に浮く原理とか、浮いたモノが推進する法則など、つまり「飛行」ということをめぐってさまざまな「科学」が説明されるが、飛行機とかヘリコプターなどに「技術」として結実してこそ人間の役にたっていると述べられていました。

(すなわち、「科学」は「役だつ」点に立てば「技術」に結びついてこそ…なんですが、別に役だたなくてもよくいわれるように「真理の追求」が本来の目的でしょう。ただ、知的好奇心を満たす、「知る」ことの楽しみということでは人の「役にたって」いるのかもしれないですね)

両者の関係は、いつも「科学」が先で「技術」が後というものとは限りません(この前、新しい顕微鏡の開発でノーベル賞をもらった学者さんたち。この最先端の顕微鏡「技術」のおかげで超ミクロの世界が探索され、新たな「科学的」解明がなされるかもしれないという可能性の存在)。

 

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『ハトはなぜ首を振って歩くのか』

 という本を読んだ。

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おもしろそうな題名にひかれ、本の体裁が文字が大きく余白も多いので読みやすそうだったこともあり読むことにしたのですが、読んでホントよかったです。

内容は一般向けの科学書で、表題のとおりの「ハトの首ふり歩行」(その解明が人間の役に立つとか立たないということは関係なしに)の謎を客観的に説明することにより、(多くの人が「あれっ?」と感じるようなことを)納得してもらう科学の楽しさを説いています。

「ハトが首を振ろうが振るまいが、私にゃ関係ない…」とも思ったのですが、本は「ハトの首ふり行動」を「ハト」だけに限らず、「首ふり」だけにとどまらず、奥の深い話に発展させ、深くうなずかせてくれました。→(興味を持たれた方は直接お読みになってください)

読みながら、私はなんども自分の首を縦に振りました。

著者の研究(観察・調査・推理・考察など)はたいへんだけれども、謎を解いて人々をハッとさせる科学の楽しさを存分あじわせてくれました。

 

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 ところで、

読み終えたくらいのときに、録画しておいた『科捜研の女(たぶん11月2日のぶん)という好きなサスペンスドラマをみた。

その回はサスペンスとしてもよくでき、それ以上によくつくられたヒューマンな物語で、強い感動を与えてくれました(ちなみに私のなかでは最高傑作といってよいほどで、隣のツレに相槌もとめたら深くうなずいていた)。

 

 ドラマは下記のようなストーリで、たまたまのこととはいえ、『ハトは…』の本とあわせて「科学」と「技術」というものについて考えさせられた。 

 

【登場人物】

レギュラーの「科捜研」のマリコさんたち、京都府警の土門刑事たち。今回の主要役の老女ふたりと、その他。

・老女ふたりはおさな友だちの大の仲よし。

ひとり(老女A)は最先端技術をもつ企業のオーナーの伴侶で、いまは「会長」として会社の代表者(一代でその企業を創業した技術者だったオーナーは先に死んでおり、老女は未亡人。すでに重いガンに冒されていて死期をさとっている)を務めている。

もうひとり(老女B。折り紙などに使う和紙の店をやっている)は必死に懇願され、やむなく親友(老女A)を殺した。 

 

【あらすじ】

・ドラマは「私は人を殺しました」という謎のメッセージが書かれた折り鶴(フーセンに吊るされていた)が浜名湖畔で子どもに拾われるというところから始まる。

(『科捜研…』の舞台は京都市。そのフーセンは京都市から飛ばされたということ、老女Aの殺人事件との関連を探るということで、ドラマは折り鶴メッセージの謎ときを柱に展開してゆくのである) 

 

・老女Aは、自分の会社の役員Cが会社の最先端技術を紛争状態にある国に売ろうとしている(その技術を軍事に転用)のを知り、それをぜったいに許すわけにはいかないと、自分の余命わずかのいのちをかけて阻止しようとする。

で、その役員Cが警察に捕まるよう(ぬれぎぬが役員Cにかかるよう)、老女Bの協力(殺してもらう)のもと老女Aはある細工(トリック)を企み、役員Cが自分を殺したように見せかける。それは結果的にいったんは成功。

ストーリーは役員Cの逮捕寸前までいくのだが、マリコさん(主人公)たちの科学捜査のおかげで逆転(役員Cは犯人ではないことが判明。真犯人は老女Bだったのだ)。コトの真相が明らかにされる。 

・仲よし(竹馬の友)老女ふたりの思いに科捜研や土門さんたち警察関係者も私たちテレビ視聴者も痛く同情しながらも、老女Bは殺人の罪で手錠がかけられるのだった。

 ・ところで、「私は人を殺しました」という浜名湖畔で子どもに拾われた折り鶴の謎のメッセージのワケとは…

老女ふたりは、(日本の敗戦が明らかになろうとしていた頃のことで、当時は若い娘さんだった)日本軍に(ふたりの地元の)特産の和紙でアメリカ本土を狙う「風船爆弾」を作らされ、その爆弾がアメリカに着き、ひとつが「あっ、フーセンだ!」と喜んで駆け寄った子どもたちを殺すことになったことを知り、ふたりは戦後もずっとそのことを忘れず、贖罪の気もちを心の奥底に秘めつづけていた(だからよけいに役員Cの考えていることがが許せなかった)。

老女Aは自分の死期が間近かということで、(自分の会社が主な協賛者となっている毎年の恒例イヴェントの)平和を願ってフーセンに折り鶴を吊るして飛ばすというものにタイミングよく出くわし(そこは「ドラマ」です)、ひそかに「私は人を殺しました」と書いて飛ばしたのだった。つまり、戦争のときだったとはいえ、敵国だったとはいえ、アメリカの子どもたちを「殺した」ということの「罪」を贖いたかったのだ。

 

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 終わりなき「技術」の追求、発展。

テレビでは、まい日のように新しい技術の開発と導入が報じられています。

 みていると、それは「人間の業(ごう)」ではないかと思うこのごろだ。

たぶん、「業」だから良いとか悪いの問題ではないのだろう。幸せとか不幸と関係ないのだろう。

技術のたいせつさは言うまでもないですが、これからは特に、何に対する技術か、何のための技術かということ、つまり「目的」がきびしく問われなければならないと思うのですが。

「技術」がバブルのように弾け…

となってもそれはそれでしかたのないことなのだろう。

ほかの生物を道づれにしない限り。ヨシとしなければならぬ。

 

でも、「科学」が人類を救ってくれるのは期待していいかもしれない。科学が技術を導いてくれるかもしれない。

ともかく、「科学」と「技術」を、いったんは離してとらえなければならないと思った。

 

 

                 ちりとてちん

 

 

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