カメキチの目
「どうでもよくない話」の続き(これで終わり)。
あれはあれで終わりのはずだったのですが、みなさんからコメントいただいて(ありがとうございました)、刺激を受けて続きを書きたくなりました。しつこいと思われるでしょうが…
■コメントくださったなかに、ステキなお若い人から
【「道徳」と標準服,実に違和感を感じます 購入するかどうかは自由…この柔らかいファシズム感,NHKの視聴料同様,日本社会の病原菌の一つに思えてなりません 想像力に欠けた大人程不徳な存在はないです】
とあり、深く考えさせられた。
とくに「購入するかどうかは自由…この柔らかいファシズム感」にすごく感じた。
口では、つまり形のうえでは「自由」というけれど、(ほんとうに「購入するかどうかは自由」なのでしょうが)入学する子どもたちの実際の立場にたてば、よほどしっかりとした何かを持ちあわせた子どもでないと、(違った服装だったら)「みんなと同じアルマーニがよかったなぁ(ウチの子どもだったら確実にそう言う)」と思ってしまうのではないだろうか。
おおかたの親は「親バカ」(ウチもそうだった)なので、わが子の気もちをだいじにしてやりたい。
ムリしてでも8万円つくる。
(子どもが惨めな思いをしても、「そんな思いは理不尽だからオマエは乗り越えなければならないぞ」とは言えません)
日本の大人の世界では「空気を読む」こと、周囲への配慮のたいせつさがよくいわれます(行き過ぎると、いわゆる「同調圧力」という弊害になってあらわれます)。
それはまさに「柔らかいファシズム感」そのものではないでしょうか(大人ならそれでも「ワシは屈しないぞ」と意気込めますが…)。
屈しなくとも購入してやりたい。カネを出すのは子どもではなくこっち。親は借金でもなんでも子どものためなら肌を脱ぐ。
8万円で大騒ぎするなんて…と、それを負担に感じない人々がおられるのは確かなことだろう。
現代の日本は、戦前の治安維持法みたいなものは存在しないし、現代の北朝鮮の金のような独裁者はいないし、自由主義社会。
経済はたしかに「資本主義」なので、カネ持ち・富裕層にもなれる(可能性がある)が、貧乏人・ホームレス(私が子どものころにはよく「ルンペン」や「こじき」という言葉が使われた)にもなる(可能性がある)。
いまは裕福であっても、いつなんどき暮らしに困ることになるかもしれない。
怠惰で、能力にもちょっと欠ける私のような者でも、何とか食っていけているのは単に「ウンがよかった」だけのことだ。
私はウンがついてなかったから木から落下した。が、仕事中のできごとだったから労災の対象になったし、何より死ななかったことを「ウンがよかった」と思わなきゃ罰があたります。
■もう一つ
私が敬愛する当初からの読者は、もうお辞めになられたが、長いあいだ高校の教職にあられた。その方からのコメント。
【校長の独断だろうと思うのだけど他の教員はもう少し抵抗できなかったのだろうか。学校の管理体制が強化されているのは確かな現実だけど。残念に思う】
前にお会いしたときにも熱っぽく語られた(長く教員をされていたベテラン中のベテラン。お会いしたときには生徒との直筆の「学級日誌」ノートの束を見せていただきました。尊敬できるような先生には会えず、「反面教師」にしたいと思うばかりの人に会った私は、「こんな先生に教えてもらいたかった…」とどれほど感じたことでしょう)。
近年の学校現場の管理体制の強化で、いかに教育内容への教育委員会の口出しが酷くなったか、先生の教え方にイチャモンをつけてくるか…を具体的に話してくださった。