カメキチの目
この本の最重点部分は前半部で述べられていました(それを④までの記事で紹介したつもり)。
最後に、本の後半部分で強く感じたことを三つだけ書きます(「書く」というより引用)。
①待つこと。見守るということ。
待つや見守るが長びくと、まわりの者は「いつまで待てばいいのか…見守ればいいのか…」となりがち。
だが、これは本人にストレスになりがち。
私は平衡障害なので、たとえば、外出の際かがんで靴を履き、杖を持つという行為がスムーズにはできません。胃がないので、飲食物がスムーズに食道を通過するよう少量ずつ口に運ぶので、食事時間がとても長い。こういった動きをツレは黙って待っていてくれるので助かっています(「相手が待っていてくれる」ことの安心感、ありがたさは、自分がそういう立場にならないと実感できないと思う)。
ですが、幼児でもスイスイできることが自分にはムリという事実が、時として情けなさに変わって癇癪を起し、イライラ…、あげく転びそうになることがしばしばあります。
そのうち、最終的には(いまの場合は「ひきこもり」ですが、子育てなどにもいえます)終わるだろうと、本人(当事者)に無言の圧力をかけている。
だいじなことは、終わるか終らないかわからないけれど、本人を信じてみようということ。
本書から引用:「「どうなるかはわからないけれど、本人にゆだねてみよう」という対応だということです。「見守る・待つ」ということが、自己の限界を試されるような、かなりむずかしい援助・支援のしかたであることがわかるかと思います」
②現代の日本は「高度消費資本主義社会」。
「ひきこもり」現象だけでなく、社会の病魔は誰でも襲う。
たまたま自分に現れたのが、世間で「ひきこもり」といわれている形だったということに過ぎない。他の形だったかもしれない。
本書から引用:「誰でも今の社会を生きている人たちは、多かれ少なかれ「ひきこもりの斜面」を持っています。それが急角度になっているか、それほどでないかというだけの違いであって、みんな持っていると思います。現代を生きるというのは、そういうことです。…
「いつまでに外に出ないと大変だ」みたいな議論は、もうやめたほうがいいんです。いいじゃない、いつまでだって。爺さんまで引きこもっていられたら、そりゃ立派なもんです。それがどうして悪いんだ?と考えていければ、「ひきこもりの問題」はおしまいなんですね。…
人は人、自分は自分という考え方と、多様性というところで見ていけば、これからの社会をイメージしていく上での大きな力になっていくと思うんです。…
最終的には、「ひきこもりなんてないよ」と言いたいわけです。そこまで議論を持って行くためのステップとして、「社会的ひきこもり」論から「存在論的ひきこもり」論へシフトする必要があると思っています。…」
③「支援」ということ。
その本質は「本人(当事者)中心」でなければならないということ。
いまの自分自身は「支援」とは縁遠い存在でも、いつ身にせまる(「対象者」となる)問題になるかわからない。
ここでは「ひきこもり」支援のことであるが、それが「社会問題」とされることによる問題、弊害を著者は述べる。
本書から引用:「支援という概念は、少し前までは「仕事」と結びついていなかった。被告が裁判に勝利するよう支援する支援活動や支援物資という言葉をみれば明らかだと思うが、ここには無償でかつ自発的(ボランティア的)なニュアンスしかなくて、市場や組織や機関を形成する要素はほとんど含まれていない。…
けれども、いまでは「仕事」として支援にたずさわる人、たずさわりたい人が飛躍的に増大しているのであり、いまやそうした「仕事」をする(したい)人たちを擁する無数のNPO法人が生み出されているのだ。→両者の「分断」」化→支援される側の「植民地化」…
「ひきこもり」支援も同様、産業的動機によって、引きこもる若者を自立していない存在、そのままではいつまでも自立できない依存的存在とみなし、支援がなければ自立できない人たちという像に追い込むことによって、自己の「仕事」の対象にしたのである。…」
「仕事」であろうがなかろうが(ボランティアであろうがなかろうが)、「支援」の本質は「本人(当事者)中心」でなければならないと、著者芹沢さんは強く言う。
本書から引用:「「支援」とは何か
支援は、支援される側を主体に、その必要性を軸になされるべきであること、決して支援する側が自分の価値観、知識、技術、経験を「善意」でこって押しつけ、支援される側を主導するものであってはならないこと。…
差し出されていれば、子どもは自らの必要性に応じて、差し出されている対象を受けとめ手として、使用することができる。何もしないということが〈する〉ことなのだといゆ逆説をここからとり出すことができる。…」