カメキチの目
先の本にはところどころにコラムがありました。
そのなかからナマケモノの話、カゲロウの話がとてもおもしろかったので紹介します。
②ナマケモノの話とカゲロウの話
■まずはナマケモノ。
「ナマケモノ」は「怠け者」。私のような者をさす。
人間のためだとはいえ、他の生きものあっての人類という謙虚な目があったら、こんな失礼な命名はしなかったでしょうね(ナマケモノに謝りたくなります)。
生きものは動物だけではない。植物しかり!
これも、もっとマシな命名があっただろうに…と思われます(名前の意味を知らなかったらよかった(笑))。
春をいちばん早く告げてくるかわいらしい草花のひとつ、「オオイヌノフグリ」。
「フグリ」とは男性のアレを指すのだそうです。オオイヌノフグリが熟して種子をつけると、その形が似ているらしい。人間のはあっても、犬のソレをじっくり見たことがないのでわかりませんが、そうなんでしょう。
それにしてもわざわざ種になるまで待たなくても、花の段階の姿から命名すればよかったのに…。
まあ名前のことはおいといて、ナマケモノの生態をみると確かにノラリクラリ…。
人間の「怠け者」は歓迎されないですが、「ナマケモノ」のほうは(とくにますます忙しい文明人には)「癒される」と大歓迎。
怠け
前に記事で「慣れ」を書いたときに、何に対して慣れるのかが問題だと思った。
その線で考えると、問題は何に対して「怠ける」のか?である。
世の中には「勤勉」でなくてはならない、「勤勉」であったほうがいい、ということもあるが、別に「怠け」たっていい、サボってもかまわないということもある。
別に自分を擁護するために言うのではありません。
いつも気を張っていると身体がもたない。
車の運転中のようにいっときも集中を欠かしてはならぬときもありますが(それでも、ときどきは休憩《怠け》しなければならない)。
長い目でみれば、そっちがだいじ(「勤勉」であるために、怠けなくてはならない)。
※「休む」と「怠ける」は、もちろん違いますが、この文脈での使用はおゆるしください。
「勤勉」・「怠け」を二項対立として考えなければ、勤勉であるために怠けるもアリということだと思う。
ともかく、人間の価値基準で動物、生きものたちを評価したらいけないと痛感した。
【引用】
「ナマケモノの戦略:
ナマケモノはジャガーに見つからないように、徹底的に動かない戦略に出たのである。ジャガーなどの肉食動物は動体視力には優れるが、木の葉の茂った中にいる動かない動物を見つけることは得意ではない。…」
「ほとんど移動しないのでエネルギーの消費が少なく、食べる量もわずかでいい。まさに低コスト化に成功しているのである」
日本人が原発の原理をエネルギーとしているならば、ナマケモノは太陽光かもしれないですね。
■つぎはカゲロウ
「カゲロウの命」といわれるあのカゲロウ。
はかないものの代名詞のように使われる。
「長い・短い」を価値基準にするならだんぜん、人間のいのちがカゲロウに勝っている。
しかしそれは、「長い・短い」を価値基準にしてという限定(条件)つき。
明らかな「限定」をつけなければ、「比較」は意味がない。
無配慮な「比較」というのは、テレビや新聞でよくやるアンケート・調査のように、世論を誘導する。かえって、「害悪」になっていると私は思う。
下記の引用にあるように、
彼らカゲロウは、生き抜くために、命を短くした。
この部分に私はビックリした。
【引用】
「はかなくないカゲロウの命:
カゲロウは生きた化石と呼ばれるほど古い存在である。…三億年も前から現在と変わらぬ姿をしているのである。…どうして三億年もの間、生き抜いてくることができたのだろうか。じつは、その秘密こそが「短い命」にある。
いたずらに長く生きていたとすると、天敵に食べられたり、事故にあったりして、天寿を全うせずに死んでしまうことが多い。しかし、短い命であれば天寿を全うすることができる。…カゲロウの成虫の役割は、子孫を残すことにある。だからこそ、成虫になると確実に子孫を残す目的だけに専念する」
ナマケモノもカゲロウも動物の一種。
でも人間だって一種。
これからの人間のあり方・生き方に、彼らの姿や生態をヒントにすることもたいせつなのではなかろうか。