カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.7.27 『半分、青い。』

                                                  カメキチの目

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(更新してから気づいたのですが、先日トップの写真を変えたのが、奇しくも空で半分青でした)

想像もしていなかったことですが、(障害者となってからは)NHK朝の連ドラを、連続してみています。

別にみたいわけではないのです。胃がなくて食事に30分以上はかかり、初めはその間の「時間つぶし」でもありました。

でも続けてみると、「はまる」わけではないけれど、それなりのおもしろさを感じるようになります(ちなみに記事の最後、いつもある「ちりとてちん」は2007年後半の番組名になった有名な古典落語名)。

 

 

 半分、青い。

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だいぶん前、わが娘くらいのお歳のステキな読者さんが書いておられました若い人の感想などがわかり、とてもおもしろかった)。

私はまず、「半分、青い」という題名が気に入った。

 

 前の前、『ひよっこ』もそうだったが、(舞台が茨城から岐阜になっても)どちらもなつかしい時代の話である。

「アッ、そういうのあった」「そだね」となる物事がいっぱい出てくる。

 

 朝ドラは、いろんな地方・地域がよく出てくるのもおもしろい。

都会はどこも似たようなのでだいたいわかりますが、地方のよさはその地方だけ。

ホントはそこを実際に訪ねてみるといい。行かないと味わえないこといっぱいあります。

予定にはなかった意外な「おもしろさ」が発見されることがしばしばあります。

 

 地球儀で日本を眺めると豆粒のように小さいが、

豆粒の中の一点いってんが地方、地域。

その「点」に生を受けた自分を含めたさまざまな人間が生きている。

自分を含めた人間の存在が愛しくなる。

「ここにも人々が生きているんだなあ」と、そこに住む人々の暮らしを想ってみる。

 そして、豆粒日本の広さを感じる。

 

 さて、『半分、青い。

ふつうの旅なら「旅番組」をみればすむのですが、ドラマは時間も旅するところがおもしろい。 

 家の建築など、その時代の流行りだろうけれど(「流行り」ということは建てやすかったということか。つまり、同じような建築材料の同じような構造なので、値段も手ごろだったということか)建て方、部屋の間どりや配置、壁の材料やつくり、部屋と部屋を仕切るガラス戸・襖・押入…などの建具、造作になじみがあり、親しみをおぼえる。

庶民の使うものは家具、調度類もよく似ている。主人公すずめの楡家の三段ボックス。色が違うだけでウチにもありました。

主人公の持っていたラジカセは、ワインレッドの色までウチのと同じ。

茶店場面がよくあり、「インヴェーダーゲーム」が装備されているテーブル、小さく丸められたおみくじの紙片が転がり出てくるカプセル型の占い器など、リアルそのもの(制作スタッフみなさんの番組作りへのこだわり、情熱が感じられます)

 

 あるときは主人公の上京後の生活の姿。

なつかしさを感じさせる場面が度々でてきました。

 その一つが電話。

 ふるさと岐阜の家族への公衆電話。東京からは遠いので通話は10円では間にあわない。

 主人公すずめは100円玉を投入して話す。

 100円だってすぐになくなるが、途中で電話を切っても10円玉は一つたりとも(釣り銭)戻らない。

 入れた100円分はきっちり100%話さないとソンだから、電話が「ツゥーツゥー…」なるまでしゃべる。話しが途中で終了してもしかたないことを相手に伝え、話すことなくてもムリに話す。 

すずめがそうしていたかどうかはわからないけれど、私はそうしていました。

電話はほんとうにフシギ(いまもそう。理屈ではわかっていても)。相手の声を聴き、同じ「瞬間」の息づかいを実感できる、その時間を場を越えて共有できる。

 

 朝ドラは、ストーリーの流れだけではなく、「なつかしい生活」「あちこちにあった日本」という視点からみてもおもしろい。

といっても、なつかしいのはオジイ・オバアだけか…

「平和」「平凡」(悪くいえば「マンネリ」「ありきたり」「日常」)。

でもその中にあるはずの「宝」に気づかせてもくれるストーリーの象徴、朝ドラがいつまでも続きますように。

 

 

                  ちりとてちん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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