カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.8.3 「一無位の真人」

                                                  カメキチの目

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きょうは禅語。

 

     一 無 位 の 真 人

        (いち む い の しん にん)

 (臨済宗の禅語録『臨済録』より)

 

自分なりにあえて直訳すれば、人間はだれも一人ひとり真実の存在であり、

位(くらい)などないということでしょうか。

 

人間の「生」は、その人間を部分部分に切り離し、部分部分について何らかの「価値観」にもとづけば評価、価値づけできる、他人のその部分と比較することは可能でしょう。

でも、そもそも「部分部分に切り離す」なんてバラバラ事件のようなことが実際にできるのでしょうか(死体の解剖なら別ですが)。

 

人間の「生」は、全体としてしか存在しえません。

長短あって私。 清濁あって私。よくいわれることですが、神さまのような人間はいない。いたら神さまで、人間ではない。

(人間は、生まれたときから、生きるなかでも、どうにもならぬことがあります。

あとからふり返って「アレは『運命』だったのかなぁ…」とでも思って受けいれざるをえないようなことがいっぱいある)

 

 現実生活のなかではいやがおうにも「無位」にいかず、比較・ランク付けされ、位置が与えられる。

いつからか、たぶんに冗談の要素があるんでしょうが「総選挙」という言葉が流行語のようになりました(私は嫌いです。嫌いでも、流行に疎くても聞こえる)。

世間ではそんなにランク付けが好まれるんでしょうか。

 世の中は、社会は確実に「私」という個人を呑みこむ。

ツライなあ、

 と感じたときには、深く息を吐いて吸おう。

 自分の目で見、自分の耳で聴き、自分の鼻で嗅ぎ、自分の舌で味わい、自分の肌で触れてみる。

 私は「一無位の真人」なのだ。だれもそうなのだ。みんないっしょなのだ。

 

ずっと前に流行した歌に「オンリーワン」という言葉がありました。それを知ってから自分の好きな言葉の一つとなった。

とかく「ナンバーワン」と比べられますが、よく考えれば「ナンバーワン」も「オンリーワン」のなかの一つですね。

 

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 と考えていたら、「一無位の真人」とは一種の人権宣言だと気づいた。

禅語はスゴイこと言ってます。

 

 

                   ちりとてちん

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