カメキチの目
ずっと前、ニュース特集で沖縄の「夜間中学」のことをやっていました。
「夜間中学」は全国どこでもあるのだろうか?
文部科学省によれば、2017(平成29)年 8都府県31校とのこと。
(これは自治体の公立中学校での「夜間中学」。つまり自治体が運営)
先の沖縄の「夜間中学」はNPO法人が運営しており、31校には入っていません。沖縄県の補助金と民間の寄付金だけで厳しい運営を強いられているとのことだった。
「夜間中学校」。
(ずっと昔、山田洋二監督の夜間中学をえがいた映画を観たことがあり、「学ぶ」ということが何なのかを深く考えさせられた)
こういう「現実」は、知るきっかけがなければ、知らないまますんでしまう。
(もちろん、個人にとっては世の中は知らない世界がほとんどでしょう)
しかし、知るべきこと、知ったほうがよいと思うことに出あったときは知ることがだいじではなかろうか。
(誤解を恐れずいえば、現在の日本には「知らないでいい」ものがあまりに多すぎると思います。そっちの陰に隠され見えてこない「たいせつなモノゴト」がいっぱいある。何をもって「たいせつ」とするか?
「価値感の多様化」といってしまえばそれで終わりです。が、寅さんなら「それを言っちゃあオシマイよ」となりそう)
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■貧しさと差別で学校にいけず、ひらかなさえ書けなかった。
文字を書けないことが、また差別と貧しさをよぶ。
初めの画面では黒板を真剣に見つめる70、80(中には90)代のオジイやオバアが映しだされた(沖縄県ではNPOが自主的にやっているので、ビルかどこかの狭い空き部屋を「教室」にしていた)。
次に、ここで学ぶようになって文字が書けるようになり、さまざまな知識を身につけるようになったことが「生きる力」を身につけることにつながったと幾人もの方が語った。
(語っておられるときの涙をみていたらもらい泣きしそうになった)
80前後のオバアが、夜間中学で文字を習い、文字を身につけたので、これでやっと自分の人生が書けると、涙ぐんで語っていた。
90近いオジイは、語るには辛すぎる子ども時代を過ごし、若くして小さな企業をおこし社長になったけれど、読み書きができないので銀行にいつも妻にいっしょに行ってもらった。夜間中学で学んだおかげでやっと自分だけで行けるようになった、
自分個人の通帳を持てるようになったと大喜び。
「学ぶ」ということの原点がここにあった。
そして、
「勉強」「研究」など(その結実としての何かの「開発」「発明」…)「学び」に関する言葉や実態はさまざまあるけれど
すべては「生きる力」につながらなければならないと強く感じた。
■あっちこっちを賑わせた「教育」につながってくる問題。
「相手を倒してこい」という言う大学アメフト部監督、息子の「裏口入学」官僚、ヤクザまがいのアマボクシング界の親分…あげればキリがない(犠牲者はみんな若い人。「老害」がこれほど酷いもんだとは驚いた。私の「老害」なんかかわいい)。
すべて、生きる気力をなくす。