カメキチの目
どんなに不便な土地に住んでいても、祖先への崇拝と生まれ育った故郷、自然への感謝・恩恵を忘れない人たち。しかし否応なくそこにも押しよせる現代文明。
(世界各地の姿を伝えるテレビ番組で、南米チリのリチウム採取の現場をやっていた)
「人間が生きるということは何だろう?」「技術の発展・文明とは?」
いつものように首をかしげた。
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地球の各地で、ヒトの普遍的な思いがこめられた生活、風習・祭礼などの儀式が多様な形で残され続いています。
(忙しく立ちまわっているばかり《かっての自分はそうだった》では見えてこない、感じられない風景、世界が存在する事実)
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スマホをはじめとする最先端のコンピュータ技術。
その作動に不可欠の電気(エネルギー)。
電気をきわめて容易に供給するリチウム電池。
携帯電話は通信・情報伝達から、カメラ撮影などさまざまな機能を持つようになり、いまやスマホで、各種アプリの搭載を通じ「革命的」に便利になった。
現金にかわる決済機能も可能となり、さまざまな生活機器の操作(IoT)もできるリモコン機能も備えようとするなど進化し続けている(将来の自動運転システムなどにまで)。
いくらスマホがすばらしくても、電気エネルギーがなければ「画餅」に終わる。
(そのうちリチウム涸渇。遠い先はリチウム充電にかわる新たな電気エネルギーを貯めておける物質が発見・発明されたりしているのでしょうか《そのときはそもそもエネルギーとして「電気がいちばん」と言っているのかどうかわかりませんが》。ともかく現代では間違いなくリチウムは重宝されています)
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番組をみて
①あらためて、「消費は作られる」と思った。
「便利・快適な生活」が人間の本能的な欲望とするならば、それをかなえるのが「経済」ならば、それに応えてくれるモノ、「商品」を求める(消費者にとっては「買う」)のは人間の自然な行為。
またそれを満たす経済活動は企業の社会的な役割(見方によっては「社会貢献」)。
ゆえに、人々が欲しがるモノは、「こんなのが欲しい」という前に作らなければならない。
(そうしないと他に越される。負ける)
正確に言えば、先に作って、作ったモノ(商品)を「こんなのが欲しかった」と思わさなければならない。
人々から欲望を引きだし、駆りたてるのは商品開発・売りこみのイロハなのだ。
スマホの進化から、つまらない想像をしてしまった。
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生物レベルでこういう人類の姿をみていると、気の遠くなる未来では、人類は進化をとげ(もちろんそのときまで人類が続いていればの話)、「スマホ」が内蔵された、つまり「スマホ」の機能が血肉化した身体になっているかもしれない。
そういうのが、火星などで生きているのだろうか。
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②チリのリチウム採取現場がテレビ画面に映っていた。
私たち日本人によく似たモンゴロイドのオジサンは、先祖伝来の自然ゆたかな大地が破壊され、とくに水が涸れることをすごく心配されていた。
リチウムを含んだ大地からそれを採取するためには、大量の地下水が必要とされるのだ。
「大いなる自然。それはとてつもなく豊かな存在。われわれはそれに守られ、その恵みを享けて生きてきた」という意味のことをオジサンは言う。
採取現場の殺風景な、広大かつ荒涼とした景色のあと、すぐそばの緑いっぱいの草々のなかをゆるいカーブを描いて小川が流れていた村が映された。
一瞬、私にはその風景が日本の農村に見えました。
ある家で、粉にしたトウモロコシを水でこねて焼いた主食を天(神)に感謝し、家族みんなが笑いながら食べているのが心にのこった。
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③たまには地球的な視点に立ってみることの必要を感じる。
「人類みな兄弟」のような気もちに人類みながなれば(それが「空想」、「ぜったい実現不可能な夢」とは思いますが)、リチウムだって金銀銅だって、すべての地球資源は(人類いがいの生きものをふくめ)そこに暮らすすべてのものに平等なので、その使いみち、使いかたをめぐってみんなが参加し話しあえばいいのだが…。
その番組はほかの世界もやっていました。インドネシアのフローレンス島。
そこでは水田が、(日本のような「田」の形ではなく)まん中の一点に向って放射状に区分けされていました。村人みんなが納得いくように平等に土地を分配(「納得がいく」ためには家ごとの平等じゃなく、その家ごとの住人《家族》数に応じて)しているとのこと。
土地の平等な分配だけでなく、「放射状」の形は〇に拡がり、〇は円相で、平等につながります。平等ではあるけれど、まとめるリーダーは必要。それが放射のまん中の一点なんですね(そこに位置する人はぜったいウソつきであってはいけません)。
フローレンス島の村々も、「高度成長期」の日本と同様、押しよせる現代文明の魅力の前に、人々のつながり(地域共同体)は壊れつつありました。
たまには過ぎさった時代をふり返ってみる必要も感じる。
たとえ昔に戻れずとも。
[オマケの話]
またテレビ(NHK・BSの「京都発地域ドラマ」)からですみません。
あるとき、大学(たぶん、京都大学でしょう)の古い寮の取り壊しの話が大学当局から一方的に出された。理由は(表向きには)耐震に問題があるということ。
住民の学生たちはとうぜん反発した(そもそも彼らはその古い寮での生活に憧れて入った)。
自治が尊ばれる校風の大学。
寮も住民学生たちの自治的な運営がなされている。
「自治」はいいのだが、実態は「自由奔放」、悪くいえばゴロゴロ自由、だらしない住民たち。
あたり前のことだが、住民の学生もさまざまだ。
大学側に勝てっこないとあきらめ(取り壊しされてもしかたない)ムードただようなか、「そんな自分たちが『自治』尊重、『多様性』万歳と大学当局とやりあっても敗北は明らか…」と嘆き「決起」を促す寮友もでてきた(苛だった彼は、みんなで飼っている寮の飼いネコにまでヤツあたりする)。
そんなとき、
(この難局を都合よくはかろうとする大学側の姑息な手法は)うるさい寮生たちの自治会リーダーの姉(彼女は大学職員)を事務所窓口にすえることによって彼らを懐柔し、追いだそうとすることだった。
寮の自治を守るためとはいっても、リーダーは窓口の姉を相手に大学とはりあう気にはならない。
かくして、いったんは大学側はイヒヒヒ…
無力感ただよう寮の住民たち。
そこにまるで妖精のごとく現われた女性。よく目を凝らせばリーダーのお姉さん。
彼女は窓口担当をやめたとのこと。そして、彼らにこんな意味のことを言った。
「私は、機能・効率重視の世の中だからこそ、いっけん無秩序な、好き放題な暮らしも古いこの建物(寮)もたいせつにしてほしい。ガンバってほしい。弟にもそう伝えてください」
(こんなこと言っていいんですか天下のNHKさん。でも、よく言ってくれました。作者さん、ディレクターさんかプロデュースさん、ありがとうございます)