カメキチの目
録っておいたテレビドラマをみました。
『指定弁護士』
みてほんとうによかった。
「森友問題」は、いまは表舞台から去った感がある(足があるわけじゃないので「問題」が自分で去るわけないですが)。
表舞台からは消えさろうとしても、消えない疑惑にはメディアはスッポンみたいにいつまでも噛みついていてほしい。引っぱってほしい。
「森友」とは関係ないけれど、先日、おおぜいの自衛隊員を前に(顔もみたくない)安倍が敬礼していたのがテレビ画面にうつっていた。なんでも殉職した隊員への哀悼とのこと。「殉職」の具体的な中身は報道されなかった。国民はそこが知りたい(私はそう)と思うのですが。
(「森友」の反吐のでそうな「幕引き」に、いまは検察審査会でほそぼそとながら抵抗が続けられている。抵抗を続ける方々に頭がさがります)
そういう中でのこのテレビドラマ。
テレビというメディアはなにも「ニュース」というかたちではなく、「ドラマ」という物語形式でも世に訴えられるんだなあと(遅まきながら)気づきました。
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ドラマは、森友学園問題の起こりから結末までを参考(「下地」)にしてつくられていました。
検察審査会の「指定弁護士」となった女性弁護士がヒロイン。男性検事とコンビをくみ、ふたりが多くの仲間の協力を得て、安倍そっくりの政治家の不正疑惑を裁判の場で追及していきます。
指定弁護士となったヒロインの動機は、もちろん「真相究明」にありますが、いちばんは、この不正疑惑問題で自殺した人(近畿財務局の人と重なった)の無念を晴らしたい、そのために真実を知りたいのだと思いました。
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感想を三点ほど。
① 青くさくても、「正義」は「正義」と貫くことがたいせつだと思った。
ときには「正義」が「悪」に反転することもあり、正悪の決めつけは戒めなければならないけれど、「正義」というものはあってほしいと思いました。
②「『正義』なんて抽象的なものはない。『検察(司法全部)がすることが正義である』」という言葉がドラマにでた。
私たち個人は(絶望しないために。無力感にうちひしがれないために)
「それがどうした!」と笑いとばし、居なおなければならないのだと思った。
検察上層部はヒロインたちが追及している政治家とグルになっている。
そして国の巨大な司法組織(検察や警察など)がいうものが「正義」なので、その組織を乱す、反するものは「正義」とはいわない(と、彼らはいう)。
ようするに、ヒロインたちが貫こうとしているのは「正義」の実現ではなく、「いらんこと」「無用なこと」「よけいなこと」を越えて、「社会秩序を乱そう」とすることなのだ。
(彼らはしばしば国家があってこその個人ということをいう。その国家を信頼できなくなれば国民は安心して暮らせなくなるという)
そのくせ、彼ら権力者は、ちょっとした小さなミスでも自らの利益に抵触しそうになったら不正・ウソが発覚する前に、「トカゲのしっぽ切り」(ときにはキーマンと目される者は殺されてしまうことさえある《あ~ぁ、恐ロシア》。そしてときには、「自殺」という名の「他殺」さえ)を謀る。
終りの裁判法廷場面では、ヒロインが熱弁をふるって真相を明かす(視聴者の私たちは拍手喝采、溜飲を下げる)のですが裁判は負けに終わります。
真実は、真相究明のために懸命に力を尽くす人々の努力により、いつかは暴かれるかもしれない(そのまま闇に葬られるかも…)。
たとえ暴かれても、あとから彼ら「権力」はいかようにでも暴かれた真実、究明された真相を自分の都合のいいように弁明し、世間を手の内にとる、味方につけるのだと思いました。
ということは、
個人のレベルではやれることに限界がある。ヒロインの終わりの姿はちょっとむなしそう、残念そうだったけれど、ともに闘ってくれた検事の彼が言ったように、真実が解明されたことをヨシとしなければならないのでしょう。
( 勝ち負けにこだわらないことのたいせつさを感じた)
③ 私たちは賢くならなければならない。
「賢い」というのはけっして知識がある、知っている量が多いことではありません(でも、知るべきことは知らなければならない)。
よくわからないことには「賛成の反対なのダ」と保留しておかなければならないと思う。