カメキチの目
この禅語を書こうとして(でもすでに書いたような気がして)調べたら、きょ年の4月の記事にありました。
きょ年のことでもすっかり忘れていたことに軽いショックを受けた。
書いているときは今もそうですが、当時もかなり精魂こめていたはず。それなのに「忘れていた」(「軽いショック」と私は流すのダ)。
ヘマをした国会議員が追及をうけ、「記憶にございません」と答えるのにこれからは怒らないでおこうと(本気で)思った。でも他人(おうおうにして「秘書」とか「妻」)のせいにしたり、「忖度」させるのは別。
好きな禅語なのでまた書きます。
任 運 自 在
にん うん じ ざい
読んで文字のとおり、(わが身を)ウンに任せば自由自在。
とくにガンバっておられる方や運(運命)を切りひらこうと真剣な方に知っていただきたい。
■私は「ウン」も「エン(縁)」も同じようなものと思っていますが、それらは「不自由」で、決して自分が思う(望む)ようにはできない。
ある程度は自分の思いどおり望みどおりにできているといえるかもしれない。
しかし、より大きなところに、(ロシアのマトリョーシカ人形のような「入れ子」構造のように)がっちりと縛っているもの、「不自由」という枠があると思う。
(極めつけは「出生」。自分という人間のつくり、親、地球のどこそこ、時代…すべて個人にとっては「偶然」の産物)
自分を超えた「存在」というしかない。
目ざそうとする「努力」も超える。
それは「仏」(「天」でも「神」でも同じ)というはるかな存在の別名のような気もする。
ところで、
仏の教えに「他力本願」というのがありますが、これは個人の努力(「自力本願」)を包みこんでいるように、私には思われます(私が「他力」「自力」の関係を深くきわめていないからかもしれないですが)。
■この禅語が述べられていた文庫本(どこかのお坊さんが著者)には、
「人は自分のコトは自分以外のモノに任せることができず、自分へのこだわり(執着、我)を断ち切るのは容易ではない。ちっぽけな分別、損得勘定がオノレを縛っている」というようなことが述べられていました。
とはいうけれど、
「自分へのこだわり」が、「ちっぽけな分別(常識など)、損得勘定」などなら捨てればいいけれど、「努力」「精進」のような自分を高めるものならばそうとはいきません。
大きな枠として「ウン」とか「エン」が鎮座しながらも、そんな限られた時空でしか存在しえない自分。
そんな個人にとって、やっぱり「努力」「精進」は崇高なことだとあらためて思った。
(「自分としては精いっぱいやった」といえる努力をしたことのない私が「任運自在」云々するのはおかしな話で、まったく説得力がないですが、自分を高める「努力」「精進」「ガンバリ」はほどほどにして《ムリをせず》、あとは天に任せましょう)
しかし、「努力」「精進」が足りない私でも、「任運自在」には救われる。