カメキチの目
先日、ちょっと嬉しいことがあった。小さなことだ。
その日は古紙回収日。
朝はやく、古紙・段ボールを(ついでに杖も)カートに乗せ、回収場に向けて押していた。ゴロゴロ…
回収場は屋外。
外に出るには、鉄の扉を通過しなければならない(私には苦手な「関門」である)。
「大げさな…」と思われるだろうが、壊れかかったロボット、酔っぱらいみたいな歩行のこっちにはその「関門」は「難関」なのだ(相手が「引き戸」ならばまだしも、ひとりでに閉まるので押さえておかなければならない「扉」。しかも鉄製。力がいる)。
で、嬉しかった小さなこととは…
カートを押しているへっぴり腰を、勤めに出る中年女性がさっさと追い越して行った。
その方は追い越しがしら、うす暗い建物内でサングラスをかけた、そうでなくてもヘンな動きの老人が古紙などとともに杖まで乗せたカートを難儀そうに押しているのに気づかれたのだろう、
鉄扉を開け、カートを押す私が通りぬけるまで、押さえていてくださったのだ。
恐縮した私はふり返って頭を深くさげ、お礼を言った。
お顔を拝見したかったのだけど、その女性はマスク姿だったし、こっちは「眼振」という目玉の振動があり、他人にそれを覚られるのがイヤでサングラスをかけているから暗くてよく見えなかった(女性は何ごともなかったようにさっさと駅へ向かわれた)。
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乗り降りするあいだエレベーターのボタンを押してもらったとか、「小さな親切」を受けて感激した話をずっと前にも 書いたことがある。
ここに書きたくなったのは久しぶり。それほど嬉しかった(帰ってそのことをツレに話したら「よかったね。私がこんどはその方と同じことをする」と言った)。
「小さな親切」はなんでもないような行為。「たかが」であるけれど、
「されど、『小さな親切』」。
小さくても、受けた人は「人間っていいなぁ」と思わせる。
大げさな言いかたかもしれないが、
人を信じたくさせる。
「人類」とか「人生」を云々することもたいせつで、鳥瞰的な眼も必要だと思う。しかし、鳥になり飛んで眺めているあいだは気もちよくても、細かいことがみえてくると憂鬱になってくる。
疲れる。ようするにイヤになる。人間ぎらいになる。
そんなとき虫になってみると、身近なところにある人間のよさに気づくころがある。 人間ずきになる(健康でいるためにもぜったい必要だと思う)。
でも、ずっと虫だったら、目の前しか見えない。で、私は「カメキチの目」なのだ。